- 幸徳秋水事件は、楚人冠や石川啄木のみならず、多く文学者に影響を与える。
- 大正になって我孫子に住む柳宗悦や志賀直哉や武者小路実篤らが、明治43年2月に『白樺』を創刊するのも、この事件と日韓併合に反発したもの。里見、有島生馬、有島武郎ら学習院出身者が参加した『白樺』は、声楽家の柳兼子も加わり、理想主義・人道主義・個人主義を掲げ、広範囲の芸術活動を展開していく。
- 明治45年に「歌壇」の石川啄木が、大正5年に文芸欄の夏目漱石が亡くなっている。親しかった社内の文学者が次々と去るなか、大正七年に東京朝日新聞社に入社してくるのが、読売新聞社にいた土岐善麿(1885~1930年)である。
- 土岐は啄木とともに歌壇のホープとして注目され、啄木死後、遺稿歌集『悲しき玩具』発行に尽力した。楚人冠が12年やっていた調査部部長や兼任の社会部次長を引き継いでいる。
- 『楚人冠と啄木をめぐる人々』(杉村楚人冠記念館編集)で、土岐の見た楚人冠について土岐の著書『目前心後』の次文を挙げている。
「人を愛することの深さ、世の不合理を憎むことの強さ、その深さ強さをじっとこらえて、非人情的な無表情をする」(『目前心後』)
- また楚人冠と親しくした人物として野村胡堂がいる。野村は楚人冠著『最近新聞紙学』(大正4年)を日本で最も整った新聞学と誉めるなど交流のあった人物。啄木の中学の先輩で啄木に影響を与えた。啄木との縁が信頼できる友を巡り合わせたのである。
(2015-02-05 千葉日報)
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