〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(48-50)「街もりおか」


[5月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏
  2013年5月号(No.545)〜7月号(No.547)
 
48. 菊池 道太(2013年5月)
啄木は、友人の伊東圭一郎に誘われて、盛岡高等小学校3年生の時、盛岡中学校受験準備のため、約1年間予備校に通った。その学術講習会(当初は育英学舎、現在の江南義塾盛岡高校)を作り、漢文・英語・数学を教えるとともに、塾長として運営していたのが菊池道太であった。
道太は、文久元年、盛岡市馬場小路に生まれた。岩手師範学校東京市内の教員などを経て、盛岡に帰郷した。友人の勧めにより、明治25年、育英学舎を設立した。一緒に通った伊東が道太について次のように回想している。「菊池先生は(中略)漢籍に詳しく、また数学の説明も分かりやすく上手だった。先生は開けっぱなしの性格で、いつも和服の着流しかドテラであった」。
  
49. 阿部泥牛・月城 兄弟(2013年6月)
泥牛は、明治10年二戸郡福岡町に生まれた。月城はその弟で、明治20年に生まれた。泥牛は明治35年、「三陸新聞」の主筆となった。この三陸新聞社にいる泥牛宛の啄木の手紙(明治37年9月12日)が存在する。
啄木主宰の文芸雑誌「小天地」に随筆作品を寄せたり、寄附金も拠出し、兄弟共に、「小天地」時代の啄木を支えたと言っていいだろう。
月城は、明治33年に盛岡中学校に入学。啄木の2級下で、啄木との交流は回覧雑誌「爾伎多麻」にある。明治41年から翌年にかけて、東京・本郷弓町の啄木の部屋をしばしば訪れていた。ローマ字日記(明治42年4月5日)に、「夜、久しぶりで阿部月城君が訪ねて来た。支那に行つて来たのだと言つていた。今は中央大学に行つてるとか。相変らずホラを吹いている面白い男だ」とある。
 
50. 工藤 常象(2013年7月)
常象は、天保10年、盛岡に生まれた。常象の妹が啄木の母となるカツである。常象の息子・大助が父を紹介して曰く、「幼にして学を好み相当漢学の素養あり。故原敬氏幼時之に就て修学せし」。常象は明治に入ってから、捕吏となり刑事になる。
明治28年、啄木は渋民尋常小学校を卒業後、仙北町組町の伯父である常象の家に寄寓して、盛岡高等小学校に通った。
常象は刑事を退職後、仙北地区への小学校設置を進めるなど、仙北町界隈における地域の発展のために尽力した。
 
   タウン誌「街もりおか」に連載中

「街もりおか」杜の都社 発行
40数年続く月刊誌。盛岡伝説案内、エッセイ、本や演劇やコンサートや映画情報など満載。1冊250円。