《関連イベントに参加しての私的レポート》
「詩歌が思想と出合うとき〜晶子・啄木・白秋の20世紀」
池田 功 氏(明治大学教授)・渡 英子 氏(歌人)・松平盟子 氏(歌人)
[司会] 内藤 明 氏(歌人・早稲田大学教授)
[文化学院の入口]
今年は与謝野晶子、北原白秋の没後70年、石川啄木の没後100年に当たる。彼らの生きた時代の思想から、いかに影響を受けたかを探る。
池田功
- 啄木と明星とのかかわり
明治33年。満14歳。先輩の金田一京助から「明星」を借りて読み、与謝野晶子らに感動し真似た短歌をつくる。明治36年11月の「明星」に啄木を新詩社同人とすると掲載される。明治38年、第一歌集『あこがれ』に与謝野鉄幹が跋文を書いている。
- 啄木と北原白秋とのかかわり
明治41年5月、森鴎外の歌会で初めて出会い親交が始まる。「北原君の宿を初めて訪ねた。」「今、唯一の詩人は北原君だ。(中略)真の詩だ。真の真の詩だ。」啄木は、白秋の詩を大変褒めている。
渡英子
- 白秋と啄木
「啄木の詩はその技巧の円熟に於て、当時の泣菫有明二大家さへも凌がうとした。その詩人としての天分に於てはその二大家にも勝ると評したのは森鴎外先生であつた」
「啄木の歌は一見蕪雑なやうで、なかなか隙を見せぬところがある」(「啄木のこと」 「短歌雑誌」大正12.9.1)
- ひさしぶりに公園に来て/友に会ひ/堅く手握り口疾(くちど)に語る 啄木(『一握の砂』明治43.12.1)
- 啄木日記に見る「明星」廃刊当時(明治41年)の晶子
「11月2日 金田一君と二人で上野の文部省展覧会へ行つた。(中略)さて日本画館の中で、晶子さんと其子らに逢つた。薄小豆地の縮緬の羽織がモウ大分古い――予は晶子さんにそれ一枚しかないことを知つてゐた。そして襟の汚れの見える衣服を着てゐた。満都の子女が装をこらして集つた公苑の、画堂の中の人の中で、この当代一の女詩人を発見した時、予は言ふべからざる感慨にうたれた。」
- 晶子から見た啄木
「石川さんの額つきは芥川さんの額つきが清らかであつたやうに清らかであつた。芸術家の人以外に見難い額だと私は何時も見て居た。そして石川さんには犯し難い気品が備つて居た」(随筆「啄木の思ひ出」『新編石川啄木全集月報』昭和13.6)
啄木が嘘を云ふとき春かぜに吹かるる如くおもひしもわれ({東京朝日新聞」明治45.5.3)