〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木WEEK」山下多恵子氏の講演 啄木行事レポート

《関連イベントに参加しての私的レポート》

[講師紹介]


石川啄木WEEK」東京・八重洲ブックセンター

12月17日
講演「啄木と都雨、そして節子」 山下多恵子

◎ わたしは啄木と同じ岩手県生まれで、各地を転々とした。現在新潟に住んで27年になる。ほんの束の間と思っていたのに、26歳で死んだ啄木の一生にもあたる。
◎ 節子と啄木
「自己の次に信じうべきものは恋人一人のみ。」なんとなれば、恋人は我ならぬ我なれば也。(明治39年1月18日付 小笠原謙吉宛書簡)
「恋人は云ふ。理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり」(明治35年11月30日付 日記)(恋人=節子)
啄木の中で節子は「私とほとんど重なるほどの存在、もう一人の私」といっていい存在。節子が啄木に求めたものは、金でも地位でもない。詩人こそが彼女の理想だった。啄木にとって節子は夢を語り合える相手だった。
自分たちの結婚式をすっぽかされても節子が啄木について行った原動力は、「啄木が天才だと思い、私はその妻なのだ」と信じること。啄木が式にでなかったことに節子は全く動じなかった。この結婚式に、それ以後の二人の関係が象徴的に示されている。節子は「待つ女」「たじろがない女」だった。

◎ 啄木と郁雨
函館なる郁雨宮崎大四郎君/同國の友文學士花明金田一京助君/この集を両君に捧ぐ。(『一握の砂』献辞)
宮崎郁雨は、啄木の人生に欠くことのできない人物だった。郁雨は、啄木が北海道に渡ったときから啄木とその家族を物心両面で支えた。家族を引き受けたということは、物質的に面倒をみたというだけではない。啄木に一人の時間、自分を見つめる時間を与えた。文学に専念する時間を与えた。歌集『一握の砂』が出た直後、郁雨は函館日日新聞に「歌集『一握の砂』を読む」という題で45回にわたって連載した。これは『一握の砂』の評としては最初のものだった。郁雨の若さ、真面目さが出ているいい文章だ。

[山下多恵子 氏]

◎ 節子の家出
「日暮れて社より帰り、泣き沈む六十三の老母を前にして妻の書置読み候ふ心地は、生涯忘れがたく候。昼は物食はで飢を覚えず、夜は寝られぬ苦しさに飲みならはぬ酒飲み候。妻に捨てられたる夫の苦しみの斯く許りならんとは思ひ及ばぬ事に候ひき。(略)若し帰らぬと言つたら私は盛岡に行つて殺さんとまで思ひ候ひき。」(明治42年10月10日付 新渡戸仙岳宛書簡)
明治42年10月、節子が家出をした。尋常でなく嘆いた啄木は、恩師である新渡戸仙岳に真に迫る手紙を書いた。天才である自分を見守り、たじろがず、支えてくれた節子が、自分を見捨てて去っていった。まるで母とはぐれて泣き叫ぶ幼児のようだ。
節子の家出という衝撃を経て啄木は変わった。のたうつような苦悩の日々をこえて成長した。

◎ 節子と郁雨
   人住まぬ国に行くべき船ならばうれしからむと歎きたまひぬ
   おそれつつそっと握るとき君の手の力ありしにおどろきしかも
   比羅夫丸その名思へば涙出づ君と乗り行きし船なりしゆゑ
   泣くべきかよろこぶべきかこの恋のあまりに深しあまりに短し
(宮崎郁雨「鴨跖草」より)

明治42年6月7日、上京する啄木の家族を郁雨が付き添い、連絡船で送ったときの歌。恋しくて別れがたい思いがにじみ出ている。歌集の元になったノートの空白に意味ありげに「S]と書いてあるのを考えると、節子との旅を記録しておきたかったのかなという郁雨の意思を感じる。


=============
石川啄木WEEK」最終日プログラム
 開始時間
  昼の部 14:00(約90分)
  夜の部 18:30(約90分)


◎12月20日(木)
・昼 講演「啄木文学の魅力を語る」
   池田 功 (国際啄木学会副会長・明治大学教授)
・夜 エンディング・トーク「なみだは重きものにしあるかな」
   菅原研洲・山田武秋・三浦千波・伊東明子・伊藤馨一

○会場
 ・八重洲ブックセンター本店 8階ギャラリー
   JR東京駅八重洲南口 徒歩3分
   東京メトロ銀座線京橋駅7番出口(明治屋出口) 徒歩4分



[八重洲ブックセンター 1F 催事案内ウインドウ]