第 29 回
第三部 苦闘の果て(1)
太栄館(東京都文京区)
最初の新聞小説執筆
○ 第三部は、病と闘いながら多くの作品を残し、短い生涯を閉じた東京時代の啄木の姿を文学碑とともにたどる。
- 1908(明治41)年5月、22歳の啄木は3度目の上京を果たし、本郷の赤心館に引っ越す。仕事のない啄木は、家族を呼ぶどころか、下宿代すら払えなかった。生活を支えたのは金田一京助の収入のみ。
- 小説を書いたが完成度は低く、現実の苦悩から逃げるように短歌を作る。6月23日夜から25日にかけて約250首を一気に詠んだ。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
歌集「一握の砂」冒頭歌もこの時に作った。
- 下宿代が払えない啄木のため、金田一は荷車で蔵書を売って精算し、蓋平館別荘に移った。富士山の見える下宿だった。後に経営者が変わり、旅館「太栄館」となり、趣のある和風旅館として営業を続けている。1955年、玄関前に「東海の」の歌碑が建ち、金田一の筆による流麗な文字が躍っている。
(2012-10-24 岩手日報)
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第30 回
第三部 苦闘の果て(2)
真教寺(沖縄県那覇市)
友思う心 南国に脈々
- 上京後の啄木は、小説の評判が芳しくなく、焦りと挫折感を歌を詠むことで紛らわせた。与謝野寛・晶子夫妻が暮らす千駄ヶ谷の東京新詩社にも顔を出していた。
- 同じ頃に新詩社に出入りした沖縄出身の歌人山城正忠(1884〜1949)の名を刻んだ啄木の歌碑が那覇市の真教寺境内にある。啄木の日記に「山城君は肥つて達磨の様である」と登場する。山城は何度か啄木の下宿を訪ね、歌論を闘わせた。山城は帰郷後、歯科医の傍ら歌壇を先導し、沖縄に近代短歌の歌風を確立する。
- 啄木が亡くなった直後には追悼文を新聞に寄せた。「その蟠りのない素樸な口の利き振りが軈て田舎出の私をしてうちとけしむる媒介となつた」。
- 山城は渋民に最初の歌碑が作られることを知り、5円を贈った。沖縄にも碑を建てる決意をするが、果たせず。山城と親交のあった国吉真哲さんが、1977年に歌碑を建てた。その時に沖縄啄木同好会ができた。除幕式の司会をした沖縄大客員教授の真栄里泰山さんは「沖縄には啄木ファンが多い。東北と沖縄は差別されていたという思いが共通している。啄木のうっ屈した気持ちとみずみずしい感性が青年の心にすっと入った」と説明する。
新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど──
(学芸部 小山田泰裕)
(2012-10-31 岩手日報)