〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(36 ~ 41)「街もりおか」

[「街もりおか」9・10月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏


36. 及川 古志郎  2012年5月号(No.533)
及川古志郎は、明治16年、医師の長男として新潟県長岡で生まれた。後に盛岡に転居し、明治29年盛岡中に進んだ。啄木が盛中1年の時、及川が中心となっていた海軍志望者のグループ修養会に入ったことで 2級上の及川と知り合った。
軍人になると言ひ出して、/父母に/苦労させたる昔の我かな。  『悲しき玩具』
及川は、海軍中将や大将として務め、近衛文麿内閣における海軍大臣となる。晩年は、海軍遺族会の会長を務めながら、各地の遺族を訪問して歩いた。


37. 小田島三兄弟  2012年6月号(No.534)
小田島三兄弟とは、嘉兵衛、尚三、真平の三人であり、『あこがれ』の出版に関わり、啄木の文学的人生に重要な役割を担っている。しかし、これまでの啄木研究界ではあまり光が当てられておらず、詳しい人物月旦は不明の部分が多い。
啄木にとっての処女出版となる詩集『あこがれ』は、啄木文学の礎石とも言える大きな意義を持っている。しかし、その出版には小田島三兄弟の協力と資金提供がなければ日の目をみなかったことは明らかである。
この小田島三兄弟に関する情報を、本誌編集部を通じてお寄せいただければありがたい。


38. 清岡 等  2012年7月号(No.535)
清岡等は、文久3年、盛岡に生まれた。明治27年に31歳で盛岡市長に就任した。在職中に三陸津波があり、私財から120円の義捐金を拠出した(当時の小学校教員初任給は約8円)。
その後、岩手日報社主幹となるとともに、明治38年、盛岡電気会社(現・東北電力岩手支店)の初代社長となった。岩手日報に啄木を入社させるために清岡が熱心に誘ってくれた様子が、啄木日記にある。「清岡等日誌」(全39冊は現在、岩手県立図書館に寄託されている)には、啄木が社長室に居た清岡を訪ねたことが記されている。


39. 船越 金五郎  2012年8月号(No.536)
船越日記は啄木伝記に関する第一級の資料の一つである。
これは、筆者が初めてこの資料に接したときの感懐であり、今もその想いは変わっていない。船越日記は、盛岡中で啄木と同級生だった船越金五郎が、「旅之跡」や「日記簿」と題した日記。まだ盛岡市高等小学校3年生だった明治29年4月3日から、亡くなる直前の昭和33年3月18日までの62年間、一日も欠かすことなく記された。全51巻にも及ぶ日記帳は、現在船越家から岩手県立図書館に寄託されている。
船越金五郎は、明治17年盛岡市に生まれた。仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)を卒業した。父の死後、花車整骨医院を継ぎ、岩手県医師会理事や岩手郡医師会長を務めた。


40. 瀬川医院の人々  2012年9月号(No.537)
年ごとに肺病やみの殖えてゆく/村に迎へし/若き医者かな   『一握の砂』
「若き医者」とは、渋民村(現・盛岡市玉山区)に移住してきて、明治35年に医院を開業した当時満28歳の瀬川彦太郎のこと。彦太郎は、ドイツに留学を志すほどの学識があり、啄木が書こうとしたドイツ語の手紙を見てやったこともあった。
彦太郎には2人の弟がいた。5歳年下の貞司と三司(生年不明)である。貞司が結婚した佐々木モトは、美人で評判だった。「ほたる狩/川にゆかむといふ我を/山路にさそふ人にてありき 『一握の砂』」のモデルで、「蛍の女」とも称される。
一番下の弟である三司の名前が、啄木日記「甲辰詩程」に多く登場する。


41. 佐藤 熊太郎  2012年10月号(No.538)
石川の作文は学校にのこしておきたい……。
これは、啄木の友人である伊東圭一郎の『人間啄木』に記されている佐藤熊太郎のセリフ。熊太郎は慶応2年の生まれ。熊太郎が盛岡市立盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中)に勤めていた明治38年に、啄木が入学した。当時の校長は、新渡戸仙岳だった。
熊太郎は、この学校で啄木の2年と3年の担任だった。熊太郎は啄木を可愛がったようで、友人の七戸綏人は、「美貌にして秀才の彼は、当時の先生に可愛がられたのに何の不思議はない…」と綴った。
熊太郎は、向学心に旺盛で、ドイツ人、フランス人、それにアメリカ人に英語を習った上、哲学館(現・東洋大学)校外生として漢学専修科を修了している。

「街もりおか」杜の都社 発行
40数年続く月刊誌。盛岡の歴史的建物、盛岡伝説案内、散歩日記、エッセイ、本や演劇やコンサートや映画情報など満載。1冊250円。