〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 うたの風景 第21・22回」岩手日報

第 21 回
第二部 漂泊の旅路(5)
  小樽公園(小樽市
  情熱ささげた記者職

  • 札幌を 2週間で離れて小樽に移った啄木は、姉トラ夫妻の家で家族と再会。南部せんべい店 2階の二間を借り、妻節子と娘京子、母カツと生活を始めた。
  • 1907(明治40)年 10月 1日、半月後に創刊を控えた小樽日報社で編集会議が開かれた。啄木は、同時期に入社し、後に童謡詩人となる野口雨情と三面を担当。
  • 小樽日報で一緒に働いた沢田天峯は、回想「啄木散華」に「工場では啄木の原稿は大歓迎で、非常な人気があった、それは第一に字のキレイなこと、次は文章の巧みなこと、それに消字が少くて読みよいことと云ふので、文撰長などはスッカリ此点で啄木崇拝家になってゐた」と記している。

   こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ

  • 小樽公園に最初の歌碑ができたのは 1951年 11月。公園は最初に暮らした家の前の通りを西へ、緩い坂を上った場所にある。

(2012-08-22 岩手日報
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第22 回
第二部 漂泊の旅路(6)
 法用寺(福島県会津美里町
  同僚ともめ小樽去る

  • 啄木は小樽日報の記者として友人の編集長沢田天峯とともに意欲的に働いた。社内は混乱後、活気が出始めたが、販売や広告の業績は低迷。経営者の意欲のなさを感じ取った啄木は、熱意を急速に失った。
  • そこに舞い込んだのは札幌にできる新聞社の話。転職を狙う啄木と事務長の小林寅吉とは、激しい口論になり、小林は啄木を殴りつけた。怒った啄木は、翌日から会社に出なかった。
  • 「事件」から 78年後の 1985年。小林の出身地、福島県会津美里町の法用寺に啄木の歌碑ができた。

   敵として憎みし友と/やや長く手をば握りき/わかれといふに
 (学芸部 小山田泰裕)


(2012-08-29 岩手日報