〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

《私の中の啄木》(4).(5)

(4)釧路時代 76日間

  • 小樽に家族を残し、1908(明治41)年1月21日夜、啄木は釧路に着く。寂しいという第一印象とは違い、釧路での生活は華々しい。釧路新聞の職場で編集長格で活躍し、地域の有力者とも語り、高級料亭に通い続ける。
  • しかし、主筆に対する不満と東京へのあこがれなどから3月末には釧路を出ることを決意。1週間ほど後、ついに釧路から海路で離れる。釧路滞在期間は76日間だった。


貧しさに共感 研究積む
  「国際啄木学会」

  • 国際啄木学会は石川啄木の研究・普及を目的として1989年12月に設立された。事務局は岩手県盛岡大学内に置き、現在、国内に5支部、海外にも4支部がある。学会主催の大会が来年9月に釧路市で開かれる。いわば「啄木研究家のサミット」だ。
  • 学会創設以来のメンバーで釧路に住む学会道支部長の北畠立朴さんは、「貧しい生活の中で歌を作り続けた啄木に共感した」と話す。啄木に関する勉強会で、地元の啄木研究の第一人者だった故鳥居省三さんに指導を受けた。
  • 来年の釧路大会では初めての試みをする。啄木滞在時期の釧路の街を長さ約5メートル、幅2メートルの巨大な地図に再現する計画だ。料亭や銭湯、近所の住人など当時の詳しいデータを盛り込む。

「次の世代にも啄木のことを伝えたいのです」
(2012-06-09 朝日新聞>北海道)
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(5)北海道を後にして

  • 家族を残し、函館を離れた啄木は1908(明治41)年4月27日、横浜に到着する。翌年に東京朝日新聞に入社。同年12月歌集「一握の砂」が刊行され、第一線歌人の地位を確立する。
  • 11年2月、慢性腹膜炎と診断されて入院。翌年4月13日、早朝から危篤になり永眠。肺結核だった。


遺骨と資料 函館で守る
「おれは死ぬ時は函館へ行つて死ぬ」

  • 函館市立待岬近くにある石川啄木一族の墓碑に刻まれた啄木の言葉だ。函館の友人で最大の支援者だった宮崎郁雨に宛てた書簡に記されていた。なぜ、啄木の墓はふるさとの岩手県ではなく、函館にあるのか。
  • 「啄木の遺骨は、私の父が図書館の書庫で一時、大切に保管していたと聞きました」市立函館図書館(今の函館市中央図書館)の創設に尽力し、初代館長に就いた故岡田健蔵氏の長女で函館啄木会代表理事の弘子さんが回想する。
  • 啄木は浅草の等光寺で葬儀が営まれた。妻の節子は2人の娘を連れて、知人らを頼り函館へ戻った。13年3月、節子は岡田氏らに等光寺にあった遺骨を函館に持ってくるように頼んだとされる。同年5月には節子も26歳で亡くなった。岡田氏は、節子の妹と結婚していた宮崎らと協力して翌月、立待岬近くに墓を建て、啄木や節子ら4人の遺骨を埋葬。26年に現在の墓碑が完成した。
  • 啄木の遺品は行李二つだったという。一つには啄木の古着。もう一つには日記やノート、書簡、原稿があった。その多くが函館図書館に永久寄託された。啄木研究者にとっては「聖地」になった。弘子さんは「『啄木に関しては、紙ひとつでも絶対になくすな』と父から言いつけられてきました」退職後もボランティアで黙々と整理を続けている。

「啄木の資料を守り、次の世代に残しておきたいのです」
 =おわり
 (この連載は横山蔵利担当)
(2012-06-10 朝日新聞>北海道)