〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(33 ~ 35)「街もりおか」


[「啄木の交友録」コピーと4月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏


33. 岩動 露子  2012年2月号(No.530)
露子の本名は孝久。開業医の長男として生まれ、明治29年に盛岡中に入学した。金田一京助らと同級で啄木の2級上だった。
少年時代から文学にあこがれ、盛中5年の時、正岡子規の俳句に傾倒して上京し、東京・根岸の子規庵を訪ねるほどだった。京助は「露子こそ盛中に文学の風を吹き込んだ人だった」と露子の孫に語っている。その風を受けて啄木は自由に文学活動に励んだものだろう。「天地の水素の神の恋成りて酸素は終に水となりにけり」は、金田一京助の盛中卒業時に開いた留別短歌会で啄木が詠んだもの。座からは「けしからん、人を馬鹿にしている」という雰囲気だったところに、露子が「いや、これが文学と化学の調和だろう」と啄木を弁護したので、落着した。


34. 工藤 大助  2012年3月号(No.531)
大助は士族で巡査を務める工藤常象の三男として生まれた。常象の一番下の妹がカツであり、後に石川一禎に嫁し一(はじめ)、即ち啄木の母となる。従って大助と啄木はいとこであるが、15歳も年が離れていたため、啄木は大助のことを「おじさん」と呼んでいた。大助は仙台の二高医学部(現・東北大医学部)を卒業し宮城病院に勤めていた際、明治三陸津波で医師のいなくなった釜石に赴任した。
啄木は明治33年、盛岡中学3年生の時、富田小一郎先生と級友とともに南三陸沿岸旅行を行った。明治三陸津波から4年後のことである。啄木は、津波について何も書き残していないが確実にその跡を歩いている。釜石では一行は旅館に泊まったが啄木は大助宅に約2週間滞在。その釜石で啄木は、人口約7千人の半数以上が犠牲となったという津波の傷跡をいやでも目にしたであろう。


35. 上野 広一  2012年4月号(No.532)
  友よ友よ、生は猶活きてあり。二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。
  三十日午前十一時十五分 好摩ステーションに下りて はじめ
    啄木が、上野広一に宛てた明治38年5月30日付のハガキ。
この日、花婿のいない結婚式が、盛岡市の「啄木新婚の家」で行われた。啄木は仙台を発ち、盛岡を素通りして好摩駅に降り立ったのである。結婚式の媒酌人を務めた広一は、愛想を尽かしてその後の啄木との交友を断った。
広一は岩手県会議員を長く務めた上野広成の長男として生まれた。盛岡中では啄木の一級下だった。絵描きをめざし明治40年にフランスに渡り、滞仏12年、帰国した。肖像画家として、皇族、政財界の要人たちの肖像画を多く揮毫した。

「街もりおか」杜の都社 発行
40数年続く月刊誌。盛岡の歴史的建物、盛岡伝説案内、散歩日記、エッセイ、本や演劇やコンサートや映画情報など満載。1冊250円。