〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(31-32)「街もりおか」

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月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏


31. 高橋 兵庫  2011年12月号(No.528)
高橋兵庫は明治21年、大地主の長男として、岩手郡巻堀村好摩(現・盛岡市玉山区好摩)に生まれた。啄木といえば、「借金」のイメージが浮かんでくることを否定しない。そうした啄木にも、数多くの「贈与」がある。その一例。啄木日記、明治37年4月3日の記述。「光一君兵庫君立直君、来る、学校にゆきて遊ぶ。兵庫へウエブスター英辞典送る。」
「辞典送る」とは、どういうことなのか。これは、後輩で見込みのある兵庫に、もっと勉強するようにという意味を込めて、東京の丸善から送るように手配した、ということではないだろうか。兵庫は後に訓導として主に岩手郡の学校に勤めた。


32. 大井 蒼梧  2012年1月号(No.529)
大井蒼梧(本名・一郎)は、神職から教師となった父の長男として、明治12年に東京で生まれた。東京高等師範学校(現・筑波大学)を明治35年に卒業、盛岡中学校に地理(英語か)の教師として赴任した。その前年から活発に活動していた啄木主宰の短歌同好会である白羊会の顧問となった。中学生は詩歌や小説などを作るな、という一般教育者の風潮に対して、蒼梧は「中学生と詩歌」の論文で反論した。つまり啄木等の文学活動をバックアップしたのだ。
啄木が盛岡中学を中退して東京に旅立つ前日に、蒼梧は発行されたばかりの『透谷全集』を贈った。並製本でも1円した。かけそば一杯が2銭の時代である。師弟関係の濃密さを物語っていよう。