《関連イベントに参加しての私的レポート》
<その 3 >
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研究発表
田山泰三「藤澤黄鵠の生涯と思想 ── 啄木「藤沢といふ代議士を〜」に関する考察」
藤澤といふ代議士を
弟のごとく思ひて、
泣いてやりしかな。
- 石川啄木『悲しき玩具』の中のこの歌に関して現在の知見を紹介する。研究は現在進行形である。昨年、私も編集に参加して関西大学出版部から『泊園書院歴史資料集 ─ 泊園書院資料集成 1 ─ 』が出版された。そこに啄木の話も載っている。
『明治四十四年当用日記』石川啄木
二月十七日 曇
南北朝事件で昨日質問演説をする筈だつた藤澤元造といふ代議士が、突然辞表を出し、不得要領な告別演説をして行方不明になつた。新聞の記事は新聞の憎むべき迫害の殆ど何処まで及ぶかを想像するに難からしめた。
- 藤澤黄鵠(元造)は、明治7年、藤澤南岳の長子として大阪に生まれる。黄鵠は、啄木より12歳上。明治22年、上京し、共立学校(今の開成高校)に入学する。明治32年と34年に清国へ留学する。明治36年、29歳で家督を継ぎ、私塾「泊園書院」院主となり学問と思想を継承する。明治41年、第十回衆議院総選挙で大阪府郡部区選出で当選する。
- 明治44年2月4日、南北朝正閏問題に関する質問書を提出し、2月16日に議員辞職する。
- 大正5年頃から大阪府立高等医学校(今の大阪府立大学医学部)にて教えるようになったが、大正9年、引退。大正13年、死去。享年51。
- 大正3年、藤澤黄鵠の主要著作『洗酲餘禄』(せんせいよろく)発行。伊予に遊んだときの紀行。
大正3年11月27日の項(友人から南北朝問題で辞職したことについて聴かれたことに対し)、黄鵠は孔子の言葉から応える。
孔子曰く『言必ず信、行必ず果。かうかう然(かう=「石」偏に「巠」)として小人なるかな』と。
- この意味は、いったん言ったことは必ず実行しようとし、一度やりかけたことは必ず成し遂げようとする。硬い石がぶつかるようなコツコツした融通の利かない人も立派な人で、強者(つわもの)といえる。
- この言葉に黄鵠は自らのことを例えている。
- 泊園書院・黄鵠ゆかりの人に日柳三舟(くさなぎさんしゅう 1839-1903)がいる。泊園書院に学び大阪師範学校長に就任する。「浪華文會」を主宰し漢詩誌『海内詩媒』を発行する。同誌には与謝野寛も作品を寄せた。日柳三舟 → 与謝野寛 → 石川啄木というラインをみると、啄木と漢学者という人のつながりが考えられる……、というのが目下の仮説である。
- 黄鵠の父・藤澤南岳と森鴎外は仲が良かった。鴎外の日記に南岳が何回も登場する。このつながりは見過ごすことは出来ない。
(研究発表つづく)