〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「2011 盛岡大会」<その 8 > パネル・ディスカッション 1/4 啄木行事レポート

《関連イベントに参加しての私的レポート》


[パネル・ディスカッション開始]


<その 8 >
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パネル・ディスカッション
  テーマ「新しき明日、新しき啄木」


・コーディネーター:望月 善次
・パネリスト:池田 功、西連寺 成子、田口 道昭、森 義真
・指定討論者:太田 登、近藤 典彦(書面参加)


◎「新しき明日の来るを…」(『悲しき玩具』29)の解釈

《池田 功》

新しき明日の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど──
啄木のこの歌を読むと、韓国の詩人尹東柱ユン・ドンジュ)の詩を思い出す。「明日はないーー幼な心が訊く」(原文ハングル伊吹郷訳)
明日 明日 と言うので/訊いたら/夜 眠りにつき 夜明けがきて/明日という 新しき日を探していたぼくは/眠りから醒めて見ると/その時は明日ではなく/今日だった//はらからよ!/明日はないのに/……」


[発言する池田功氏]

このふたりに共通することは、明日が期待できない閉塞した厳しい状況の中においてでさえ、明日を期待する。つまり厳しい状況は壁であり、壁が高ければ高いほど、自由への望みや明日に対する期待は大きくなる。啄木の願った明日は大きな意味での世界の一新だったと思う。平凡な日常を送っている我々は、この歌をよむと喝を入れられる。
3・11の絶望的な困難から脱するとき、この歌に接して何か救われる思いがするのではないだろうか。


◎ 啄木の詩は如何なる「明日」を拓き得るか〜「呼子と口笛」にも触れながら〜

《西連寺 成子》


[発言する西連寺成子氏]

啄木の「呼子と口笛」の詩には力がある。三つの詩を選んでみた。
「はてしなき議論の後」には、「若き婦人」が出てくる。印象的なイメージがあり、その場の雰囲気をあらわす一番大きな力を持っている。「激論」には「K]という女性が出てくる。五時間にわたる激論の最後にこの女性が出てくることによって、革命のある一場面が強く印象づけられる。「古びたる鞄をあけて」には、「若き女」が出てくる。
自分が経験しないことでも、ことばの意味だけではなくことばのイメージが湧き、体験したような感情を持つ。そんな力がこの詩にはある。



[岩手日報の啄木学会記事 2011-11-06付]


《近藤 典彦(書面参加)》
読者なしには啄木詩といえども、「明日」を拓くことはできない。われわれ研究者には啄木の読者を創り出す任務がある。
啄木没後すぐから圧倒的多数の青少年によって愛読された啄木短歌は、1985年頃以後の青少年には読まれなくなった。2008年、「蟹工船」ブームが来て、誰からともなく「つぎは啄木だ」と言われたが……。就職氷河期がはじまり、非正規雇用労働者が増大し、青年たちは文字通り時代閉塞の現状下にもがいている。
では、啄木はもう青年に読まれないかというと、否、と思う。啄木の作品は時代閉塞の現状との真正面からの対決の産物である。時代閉塞状況が進むと若い世代は親のすねを囓ることも出来なくなる。いやでも閉塞状況と正面から向き合い、社会と時代を直視することになるだろう。そのとき啄木がふたたび青年たちのものとなる、と思う。啄木は古いのではなく、あまりに新しいのだ。


(パネル・ディスカッションつづく)