〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑰ 仕事(下))


[ズミ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑰ 仕事(下)
  鋭いジャーナリスト

  • 啄木は詩人や歌人、教育者としてだけではなく、ジャーナリストとしても有能だった。そのスタートの地が北海道だった。1907(明治40)年、「函館日日新聞」遊軍記者となるが、直後に大火発生し新聞社も焼失した。札幌の「北門新報」校正係を経て、「小樽日報」記者となるも、事務長から暴力を振るわれ退社。「釧路新聞」に移り、3面主任となり実質的な編集長格として、ようやくその才能を発揮する場を得た。
  • 「こほりたるインクの罎(びん)を/火に翳(かざ)し/涙ながれぬともしびの下(もと)」。決して楽ではなかった釧路時代を「一握の砂」でこう振り返っている。
  • やがて、上司への不満や中央文壇への憧れから上京を決意する。家族を函館に置いて単身東京へ。同郷の「東京朝日新聞」編集長、佐藤北江(本名真一)に手紙を書き面接を経て1909(明治42)年、同社の校正係に採用される。啄木はここで「二葉亭全集」の校正に携わったり、歌人としての才能を買われて「朝日歌壇」選者に登用されるなど、活躍する。
  • 1910(明治43)年、社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとされて逮捕。この「大逆事件」に、啄木は深い関心を寄せる。啄木が社会主義に傾倒していく転換点に位置するとも言われる評論「所謂今度の事」「時代閉塞の現状」を書く。しかし、発売禁止処分を恐れた編集者の判断により、東京朝日新聞には掲載されなかった。
  • 元国際啄木学会会長で天理大名誉教授の太田登さんは「啄木は時代と社会、メディアとの関連性を熟知し、敏感だった。先天的に勝れたジャーナリストだった」と、高く評価する。


☆天才主義からの脱却 作品に見る啄木
「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」(「一握の砂」)

  • 啄木は、「為事(しごと)」と「仕事」を、意識的に使い分けていたようだ。太田さんは「真面目な勤労者として、生活のため『為事』をしなければならない暮らし方の中で、啄木が求める『仕事』とは、自分にしかできない生き方だった」とみる。
  • その上で「この時期の啄木は、実社会と文学的生活との間に身を置いていた。新聞社でメディア体験をすることにより天才主義から脱却し、晩年にかけては『為事』も『仕事』も両方必要だ、という考え方へと変わっていった」と強調する。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-04-27 岩手日報
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