〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木を「朝日歌壇」選者に 杉村楚人冠


[「杉村楚人冠別荘のサロン」 千葉県我孫子市]


房総の作家  千葉日報
  啄木を「朝日歌壇」選者に 杉村楚人冠(8)

  • 家族を親戚のもとに預け、函館、札幌、小樽と転々とした石川啄木(石川一、1886年岩手県生れ)は、明治41年4月に上京。盛岡中学の先輩・金田一京助は家財まで売って啄木を援助し同5月に本郷菊坂の「赤心館」に止宿する費用を捻出。啄木は歌作りに勤しみ、『一握の砂』に収録される歌を多く詠んでいる。
  • 啄木が同郷で東京朝日新聞社にいた佐藤北江に頼み、同社に入社するのは42年3月。43年4月、渋川玄耳に頼み東京朝日新聞に自分の歌を載せてもらっている。
  • 楚人冠が、渋川から「朝日歌壇」の選者に啄木を抜擢したい相談を持ちかけられるのは同8月頃。渋川は楚人冠著『七花八裂』の序文を書くなど、二人は深い交流と強い信頼があった。杉村楚人冠記念館編集『楚人冠と啄木をめぐる人々』には、楚人冠が相談を受けたときを記した次の書簡が載っている。

「…石川啄木君に和歌の選者を頼む時、流石に英断果決の渋川君もちと突飛の抜擢と考へたか、どうだろうかと僕に尋ねました。僕は歌も分らず石川君の事もよくは知らぬが、兎に角才能によって異数の抜擢を行ふという事にいふべからざる興味をもって、僕は言下に賛成の意を表しました。それが幸にして成功であった事を今に痛快に感じてゐます。(大正5年12月6日吉田孤羊(こよう)宛書簡。盛岡てがみ館所蔵)」

  • 楚人冠は渋川を信頼し、すぐに賛同したが、内心は心配していたのがわかる。
  • 啄木は43年9月に、24歳の若さで「朝日歌壇」の選者となった。

(2014-12-18 千葉日報>房総の作家)

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「我孫子の楚人冠と啄木と」啄木文学散歩

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