<動画 39秒>(街の音はありますが、音声はありません)
喜之床跡 = 理容 アライ
本郷三丁目角の「かねやす」を過ぎ、春日通りを後楽園方向に進む。200mほど歩くと左側に「理容 アライ」の三色ねじり棒が見えてくる。この二階に啄木は間借りをした。
店主は当時の家主の子孫に当たられる方で、百年以上経った現在もお店を続けていらっしゃる。
本郷通りと春日通りの交差点にある「かねやす」
<かねやす>
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。客が多数集まり祭りのように賑わった。享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙道は板や茅葺きの家が続いた。
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
『本郷も かねやす までは江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
文京区教育委員会 昭和61年3月
北海道から上京した啄木は、1909年(明治42)6月16日、妻・子・母を上野駅に迎え、この床屋の二階に間借り生活を始めた。
本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現・文京区本郷2-38-9)
「理容 アライ」と「文京区教育委員会」の説明板
啄木ゆかりの喜之床旧跡
石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5-15・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。
わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
喜之床での生活は2年2か月、明治44年8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年5月(1978)啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川 (喜之床時代の作)
文京区教育委員会 平成4年10月
◎ 「本郷喜之床」理容遺産に
明治村に移築した「本郷喜之床」は、今年(2013年)全国理容生活衛生同業組合連合会から理容遺産に認定され、建物の前には記念碑も立てられた。
- 喜之床(理容 アライ)
- 東京都文京区本郷2-38-9