〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木に会いに 旭川 <その 2 >

啄木文学散歩・もくじ


啄木は雪の結晶に囲まれた窓から外を見ている

像を建立したのは、「旭川石川啄木の歌碑を建てる会」(会長・相川正志さん)。2010年に、旭川市出身で国際啄木学会前会長の近藤典彦さんが「旭川駅前に『啄木歌碑』を建てませんか」と提案したことから始まった。
啄木は、1908年(明治41)1月、小樽から釧路に向かう途中、旭川で下車した。啄木像は汽車の窓から厳寒の旭川を見る姿をイメージした。デザインしたのは旭川出身の造形作家、中村園さん。




啄木像の正面下の歌碑(揮毫・中西清治さん 旭川市在住)

  • 歌の解説 近藤典彦さん

啄木は1908年(明治41)1月20日旭川駅で下車した。すぐに「停車場前の宮越屋旅店」に向かった。

宮越屋旅館の思い出
   名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の/宿屋安けし/我が家のごと
1月20日 北海道奥地の旅館なのにどっしりとして広い部屋、大きな桐胴の火鉢、行き届いたサービス。啄木にとって旭川の好印象と重なる宿となった。

宮越屋旅館の思い出
   伴なりしかの代議士の/口あける青き寐顔を/かなしと思ひき
1月20日 夜になって釧路新聞社長白石義郎が合流し、啄木はふたりで1泊した。白石社長(五月衆議院議員になる)の寐顔には、福々しいこの人がふだん見せることのない疲労と苦痛が表れていた。啄木は人生のむなしさが見えるようで、悲しいと思った。これもあの旅館につながる旭川の思い出だ。

台座左横の歌碑

宮越屋旅館の朝
   今夜こそ思う存分泣いてみむと/泊まりし宿屋の/茶のぬるさかな
1月21日 6年前の1902年1月25日氷点下41度を記録した旭川である。この日も猛烈な寒気が天地を覆う。旅館にも寒気は容赦なく侵入する。熱湯は急須に注ぐとぬるくなる。湯飲みに入れるとなお冷める。口に含むころには夏の川の水のようだ。「茶のぬるさ」はこの日の厳寒の表現なのだ。

旭川駅の列車内
   水蒸気/列車の窓に花のごと凍てしを染むる/あかつきの色
1月21日 午前6時半発釧路行きの汽車へ乗った。まだ日の出前である。この日の気温は氷点下27.1度。列車のすべての窓には千変万化の模様が満遍なく凍り付いている。東南東の化雲岳あたりから射して来る紅い光がその模様を染める。

「歌の解説」の額

啄木は小樽から釧路に向かう途中旭川に下車した。わずか15時間余の滞在だった。1910年(明治43)10月、旭川滞在を回想して4首の短歌を作り、不滅の歌集『一握の砂』に編集した。2週間滞在し非常に気に入った札幌の場合でさえ4首である。旭川の印象が鮮烈であったことを物語る。

(つづく)