〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(21-23)「街もりおか」

[「啄木の交友録」コピーと4月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏
  2011年2月号(No.518)〜4月号(No.520)

21. 大信田 落花(2011-2)
落花(本名・金治郎)は、東京の大倉商業学校時代に岩野泡鳴より文学的な刺激を強く受けた。盛岡に戻った落花は、啄木から文芸雑誌「小天地」発行の相談を受けて資金(「委託金」)を援助した。啄木はこの「委託金」を費消したという嫌疑で警察分署長から出頭命令を受け、事情聴取をされた。告発したのは落花ではなく、啄木の父・一禎の宝徳寺再住反対派であり、その陰謀だったと啄木も想定している。啄木の裁判所出頭には、落花も一緒に出頭し証言している。
22. 齊藤 佐蔵(2011-3)
<おちつかぬ我が弟の/このごろの/眼のうるみなどかなしかりけり> 啄木が「我が弟」と呼んだのは、5つ年下の齊藤佐蔵。渋民尋常高等小学校の代用教員時代に、啄木一家が暮らした齊藤家の跡取り息子であった。明治40年春、啄木が渋民小の生徒らを集めて「ストライキ事件」を起こしたが、当時盛岡中2年の佐蔵は学校側からの要請で仲裁をするために戻った。窓や机を壊す計画だったようだが、大事に至らなかったのは、佐蔵のおかげであったかもしれない。
23. 猪狩 見龍(2011-4)
見龍は、盛岡中時代啄木が中心となって発行した回覧雑誌「爾伎多麻」の同人として作品を掲載した。「嗜好」欄には流しの三味線の音が好きだと載せている。後に医師となり、沼宮内(現・岩手町)で開業。馬に乗り、トルコ帽をかぶって往診する姿から「沼宮内の赤ひげ先生」と呼ばれた。親友だった野村胡堂の追悼文によると、見龍は学生時代「龍丸さん」の愛称で呼ばれ、上品な美少年だったとのこと。

   タウン誌「街もりおか」に連載中