〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木は 3カ月間でロシアの軍人にも感情移入できる広い視野を得た

アメリカフウロ

「岩手と東北アジア-交流と衝突-」 32

  麻田雅文(岩手大人文社会科学部准教授)

第2章 明治編 ⑰石川啄木の変容

若きナショナリスト

  • 石川啄木が作品を発表した新聞や雑誌は47紙誌に及ぶ。それらの新聞・雑誌の中で、最も多くの掲載回数を占めたのが『岩手日報』だった。『岩手日報』に初めて彼の作品が発表されたのは1901年12月3日で、啄木はまだ盛岡中学の4年生だった。以後、1909年末まで、彼の作品は断続的に紙面に掲載され続けた。『岩手日報』こそ、啄木の「文学的ささえ」といわれるゆえんだ(尹在石「石川啄木研究 明治期新聞ジャーナリズムと権力」博士論文)
  • そこで今回は、啄木が『岩手日報』に投稿した、開戦初期の2本の随筆を読み解きたい。
  • 日露戦争は、朝鮮における勢力争いが引き金となった。
  • 開戦当時、満17歳の啄木も興奮した一人だった。彼は日記にこう書く。2月9日に旅順で海戦があり、「全勝」した。「真に、骨鳴り、肉躍るの概あり」(「明治37年日誌甲辰詩程」1904年2月11日条)。
  • 戦果を喜ぶ啄木は、『岩手日報』に連載した「戦雲余録」(1904年3月3日〜19日)で、文明や平和の廃頽を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだといい切った。そして「戦の為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふのである」と、大義は日本にあることを説く。
  • しかし、1904年6月の「マカロフ提督追悼の詩」では、敵将を悼んだ。
    啄木はマカロフを、「偉(おほ)いなる敗者」「軍神の選びに入れる露西亜の孤英雄」と称え、「ああよしさらば、我が友マカロフよ」と呼びかけた。
  • しかし、『岩手日報』で公表した随筆は、「愛国心に浮かされたアジテーション的な表現」で埋め尽くされている。むしろ啄木は、3カ月間で、ロシアの軍人にも感情移入できる、広い視野を得たと考えるべきだろう。それは「成長」といっても良い。こうして芽生えた複合的な視点が、戦後の啄木の、卓越した社会評論へとつながってゆく。

(2023-05-14 岩手日報