〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木が二十六歳で夭折したことは 日本言論界の惜しみても余りある損失だった

ラベンダー

週刊ポスト

【逆説の日本史】歌人石川啄木が持っていたジャーナリスト的「嗅覚」

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立IV」、「国際連盟への道2 その1」をお届けする(第1346回)。

 

  • ここで、明治時代の終焉から大正時代の開始までの三年間に起こったことを時系列的に整理しておきたい。
  • たとえば、この「三年間」に明治を代表する歌人石川啄木が肺結核で満二十六歳の短い生涯を閉じている。その命日は明治四十五年(1912)四月十三日、大正元年は同じ年の七月三十日からだから、あと少しで「大正」だったことがわかる。言うまでも無いが、七月三十日は明治天皇の「命日」でもある。歌人啄木としての代表作は、

頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

  • などなど枚挙にいとまは無いのだが、啄木の生前には引用した五首のうち冒頭の一首がタイトルの由来になっている第一歌集『一握の砂』が辛うじて刊行されていたものの、「人がみな 同じ方角に向いて行く。それを横より見てゐる心」などが収録されている第二歌集『悲しき玩具』が刊行されたのは没後のことである。生きている間には間に合わなかったということだ。
  • 啄木は、その短い生涯の晩年期には社会主義に関心を深めていた。生涯病魔に悩まされ経済的に困窮したのが、その直接のきっかけだろう。いわゆる「福祉」などという概念はまだ普及していない。
  • 啄木は優秀な頭脳の持ち主で、いまでいうジャーナリスト的な「嗅覚」も持っていた。幸徳秋水の「大逆事件」は、当初は「無政府主義者」が「爆裂彈を密造し容易ならざる大罪」を犯そうとしたので逮捕された、と報じられた。すなわち、「大逆」の二文字は当初の報道には無かった。ところが、当時朝日新聞社に勤務しさまざまな部署とのコネクションを持っていた啄木は、検察が幸徳らを刑法の「第七十三條」で起訴したという情報を入手した。
  • 第七十三条は、言うまでも無く「大逆罪」を規定している。つまり、われわれが歌人として日本史のなかで記憶している石川啄木は、じつは当時の日本人のなかでいち早くこれが「大逆事件」であると気がついた、数少ない一人なのである。
  • 実際この啄木の『’V NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』も当時公刊されることは無く、公開されたのは戦後のことだ。それでも、啄木が生きていれば地下出版などの手段でこの文章を公開する手があったかもしれない。そうすればその後の日本の言論環境も変化し、国家の方向性も少しは修正されたかもしれない。その意味で啄木が二十六歳で夭折したことは、単に日本歌壇だけで無く、日本言論界の惜しみても余りある損失だった。

(2022-07-07 NEWSポストセブン)

週刊ポスト2022年7月8・15日号

 

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