〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

明治40年 多喜二が小樽へ移住し 啄木と雨情が小樽日報で働いていた

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マンリョウ

小樽のどこかにきっとある。ここは、文学の交差点。

   フリーライター 盛合将矢

石川啄木と野口雨情は僅かな期間ですが小樽で一緒に働き、伊藤整小林多喜二は同じ学校に通う一学年差の先輩後輩という関係でした。小樽のどこかに、幻の〝文学の交差点〟があるかのように、やがて文豪と呼ばれる若き才能を二度も引き合わせています。

石川啄木

  • 明治40年に小樽日報という新聞社が誕生しますが、立ち上げから参画したのが石川啄木と野口雨情でした。
  • 小樽に来た時の啄木の日記では、小樽の道路を“天下の珍 ”と表現しています。水はけの悪い粘土質の場所が多く、雨が続くと荷馬車の鉄輪が地面にめり込み、至る所に大きな轍が出来ていました。
  • 野口雨情が退職したきっかけで出世しますが、その後退職。同僚が残した記録では、啄木が札幌への取材が重なったとき、周りの社員から〝 より条件のいい仕事を求めての転職活動〟であると疑いをかけられて口論に発展。一方的な暴行を受け、それを知った上司が何も対応しなかった事に苛立ち、退職したと記されています。

■野口雨情
 童謡界の三大詩人と謳われる野口雨情は25歳の頃、札幌の北門新報から小樽日報に移ってきました。

伊藤整
 詩集「雪明りの路」の自費出版をきっかけに、文学の道を歩んだ伊藤整。それ以降は「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳や、明治から大正時代の文壇史をまとめた「日本文壇史」などを執筆しました。

小林多喜二
 ブラック企業が社会問題になり、酷使される労働者や格差社会が浮き彫りになった平成20年、発行から約80年経っている小説のタイトル「蟹工船」が、その年の流行語大賞にランクインしました。

■番外編:永倉新八
 新選組二番隊組長として、池田屋事件などを戦い抜いた永倉新八。晩年は小樽で暮らし、亡くなった場所も小樽でした。

 ちなみに、小林多喜二が4歳で小樽へ移住し、石川啄木と野口雨情が小樽日報で働いていた明治40年永倉新八も小樽に住んでいました。
(2022-02-07 小樽観光協会 おたるぽーたる)

 

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