石川啄木と父、伯父 ―― 野辺地の縁 ⑤
対月、一禎の影響 文化、文学振興に寄与
- 石川啄木の伯父・葛原対月や父・一禎の滞在は野辺地町にどんな影響を与えたのか。野辺地町立歴史民俗資料館長などを歴任した高松鉄嗣郎の著書「啄木の父一禎と野辺地町」によると、一禎は同町で啄木と同年代の野辺地学生会の会員と親しく交流していたという。
- 野辺地学生会は1902年、結成集会を対月が住職を務めていた常光寺で開いている。会員の団結による智徳体の錬磨が目的で、会員は35人。会長の松本彦次郎は当時、東京帝国大学史学科に在籍していた。同会は夏期講習会を開催。会報に英語、代数、幾何などの指導者は記されているが、漢文の欄が空白になっている点について、高松は著書で「おそらく対月和尚が担当し、一禎も協力していたのではないだろうか」と推測する。
- 野辺地は当時、大阪商人との付き合いから俳句が盛んだった。00年に結成された俳句結社「笹鳴会」は03年、県内活版印刷では初の俳句同人雑誌「菅菰(すがごも)を創刊している。学生会会員も俳句をたしなむ人が多かったという。
- 同町出身の民俗学者の中市謙三は対月の書を啄木の親友だった盛岡市出身の言語学者・金田一京助に紹介した際の金田一からの返書を「野辺地町郷土史資料」に載せた。金田一は一禎や啄木が和歌に親しんだ背景として対月の影響を指摘している。(兼平昌寛)
(2021-10-09 東奥日報)
(おわり)