〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「紅苜蓿  <9>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

紅苜蓿  <9>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)

  • 1906年(明39)10月頃に函館で誕生した文学結社。雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』(第一冊~第七冊)を1907年1月より発刊。第八刷は編集済みであったが、同年8月に起こった函館大火により、印刷所が焼失。これにより苜蓿社は事実上解散した。
  • 創刊号は200部印刷し、二号は400部印刷したがすぐ売り切れるという好調なスタートをきった。啄木は苜蓿社の松岡蕗堂(政之助)の求めにより、『紅苜蓿』第一刷に詩「鹿角の国を憶ふ歌」を寄稿。その縁で渡函することになった。
  • 啄木はここに集った人々と生涯にわたり親交を結んだ。啄木が1907年(明40)5月の渋民出奔以来、一番楽しい思い出としてこころに残っているのは、この函館時代であった。それはほんの四ヶ月余りであったが、啄木はほとんど連日、苜蓿社の若い友人達と人生論、文学論を闘わせ、短歌等を詠んだりし、これらの交流が啄木の人生、文学に豊かな稔りをもたらしたからであった。特に、5月11日に吉野、岩崎、松岡、啄木4人で歌会をやり、二年振りで啄木は短歌を詠んだことが重要であろう。これ以後啄木の文学は変化の兆しを見せ始める。

(『石川啄木事典』 国際啄木学会<編> おうふう 2001年)

 


 

  • 「紅苜蓿」の主宰者の大島流人は、啄木よりも9歳の年長で、「予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に清和女学校の教師たり」という啄木の信頼と尊敬を集めたほどの人物であったが、教え子、石田松江との結婚の破綻から職を辞し、郷里日高の静内に去っていった。
  • 啄木が出した書簡で相手に対して先生と書いているのはごく少ない。例えば、森鴎外姉崎正治(東京帝大教授)、新渡戸仙岳(盛岡高等小学校の恩師)、佐藤真一朝日新聞編集長で啄木の上司)などであるが、これらの人達は常識的に見て当然であるとしても、文学における師であった与謝野鉄幹でさえ先生とは書いていないから、ましてや友人などに書くはずはない。その中で大島流人だけには先生と書いているのである。この事実を見ても彼が流人をいかに尊敬していたかがわかると思う。
  • 主宰の流人は去るに当たって雑誌の全権を啄木に委ねた。
  • 第6号から啄木の編集となった。まず誌名を「れっどくろばあ」と英語読みとし、巻頭に自作の詩「水無月」を据え、巻末に入社の辞を掲げ、裏表紙に主筆石川啄木と大書しアピールしている。万事に控え目な流人との性格の差が見られて興味深い。

(井上信興 『漂泊の人 実録・石川啄木の生涯 』 文芸書房 2001年)

 

(つづく)