紅苜蓿 <4>
-啄木の歌に登場する花や木についての資料-
- 啄木は函館へ着くとすぐ青柳町四十五番地の苜蓿社に落ち着くことになりましたが、そのままそこで二か月ほどの間厄介になっておりました。
- 啄木は座談の優れて面白い人で、親しみのあるお国なまりで、あの明哲な理智を閃かしながら、明快な調子で、話し続け、いつも話題の中心になっておりました。啄木からは、節子さんとのロマンスを度々聞かされてまして、大いに羨望したものであります。後年私が節子さんの妹と結婚して、友人の立場から兄弟の関係にまで進んだのも、啄木の話に魅せられたためであったかも知れません。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
この歌は、啄木が当時を懐かしんだ歌であります。
- こうした夢のような生活を毎日送っておりました一方に、啄木は本当はひどい生活苦に追いつめられていたのであります。
- 自分の着て寝る夜具まで売って旅費を作って函館へ来た啄木は、その日からでも働かなければならない境遇にあったのであります。
(函館時代の啄木(一)昭和二十九年四月十二日放送 宮崎郁雨 ▶宮崎郁雨放送草稿① NHKラジオ全国放送「趣味の手帳」より)
(「啄木研究」 第五号 特集=日記に観る啄木の人間像」 洋洋社 昭和55年)
- 友情は変質する。とりわけ啄木に関しては、その感が深い。明治末期の詩歌壇に天才を印象づけたがゆえに表面化する周辺の人々との関わり方の問題であるわけだが、この啄木をめぐるソシオグラムは、随所に異常な緊張を内在させている点で、さらに特徴的でさえある。
- それは宮崎郁雨との関係をもって典型とする。
- その出発から親交へのプロセスは、明治四十年五月五日夜、青柳町露探小路の苜蓿社で開かれた啄木を歓迎する集いを以て起点とする。
- 啄木と郁雨は自ずと感応し合い、やがて二人だけの交友の図柄を描くわけであるが、その際「失恋の苦悩と、極度の自己嫌悪とのために無為悶々の日を送つて居た」郁雨は、啄木の「優れた天分と文学に対する深い造詣」、及び「総ゆる障碍を排除して成就した彼等夫妻の健気な恋愛」に瞠目し、「自分の持たないものに対する本能的な憧憬」から交友圏を拡げようとし、「心機一転を招来」せしめたいとする気持を平行させていた。
- むろん啄木も相応のエールで応え、妻子が合流して家族を混えて交際。ぐっと連帯を深めた。文学や人生に言及し、困窮を訴えたりした。この啄木によって行動を引き出された郁雨は、度々生活費を送金…。啄木が明治四十一年四月下旬に単身上京する際には残された家族をあずかり、庇護の責任を果したあとで節子の妹堀合ふき子と結婚。その後も求められるまま送金のパターンを繰り返した。
- 啄木にとっては人生の終盤での、郁雨にとっては永らえていく過程での出会いであったが、いかにその結末が不幸であろうとも、例えば、(つづく)
大川の水の面を見るごとに/郁雨よ/君のなやみを思ふ
(一握の砂)
それぞれの分に立ちゐて/われの見し啄木の見し/友といふもの
(郁雨歌集)
- (つづき)のごとくに、まず啄木が郁雨を視野に収め、次に郁雨が追憶の中で啄木夫妻に出会って、イメージを叙情で固め合うといったともどもの絆は、その共有した青春を永遠化して、双方の人間像を肉付け、当該文学の背景をも照していて興味深い。
- 多分、彼等は天上に在って、いま幸福ではないか。
(啄木・その周辺 「宮崎郁雨と啄木」 藤沢 全)
(「国文学 解釈と鑑賞」 第50巻 2号 特集=石川啄木」 至文堂 1985年)
(つづく)