高く飛べるを 岩手もりおか航空史①
空の黎明に啄木感動 愛橘の働きで東大研究所
今年は1910(明治43)年に日本に飛行機が登場して111年目。この間、岩手県人がわが国の航空界に大きな足跡を残している。71(昭和46)年7月には雫石町で全日空機と自衛隊機が衝突し当時、世界最大の航空機事故から50年目にあたる。空の安全と発展のために岩手、盛岡から日本の航空史を見てみよう。(鎌田大介)=毎月1回連載します。
- 晩年の石川啄木は、日本の空の黎明に大きな感動を覚えていた。1911(明治44)年に名詩「飛行機」を書き、「見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを」と当時の文明の最先端に憧れた。その年4月2日の啄木の日記には「新聞には花の噂と飛行機の話が出ていた」とあり、歌人の好奇をうかがわせる。
- 1910年12月19日、東京の代々木練兵場で陸軍の徳川好敏と日野熊蔵の両大尉がわが国初飛行に成功。機体はフランス製「アンリ・ファルマン」とドイツ製「グラーデ」。2人は臨時軍用気球研究会の委員だった。日本の航空界は、この研究会を母体に生まれた。
- 二戸市出身で、盛岡の藩校に学んだ東大教授の田中舘愛橘はいち早く航空の可能性に目覚めていた。東京の第一高校でグライダーの試験飛行も行い、当時、校長の新渡戸稲造も立ち合った。愛橘は佐々木信綱に学んだ歌人でもあった。「富士の山 あおぎ見ればあま雲のたゆるあたりに飛行機の見ゆ」。盛岡中学時代の啄木の恩師、冨田小一郎とも交わった。
(2021-02-27 盛岡タイムス)