真生(SHINSEI)2020年 no.312
「石川啄木と花」 近藤典彦
第十五回 桜の花
花散れば
先づ人さきに白の服着て家出づる
我にてありしか
(出づる=いづる)
作歌は1910年(明治43)10月中旬。初出は「スバル」(明治43年11月号)。『一握の砂』(明治43年12月刊)所収。
- 啄木は桜の花をどう思っていたのか。もちろんとても好きでした。23歳の時に書いた有名な「ローマ字日記」にもこんな記述があります。明治42年4月11日に親友金田一京助と花見に行った時のことです(漢字仮名交じり文で引用)。
……吾妻橋から川蒸気に乗って千住大橋まで隅田川をさかのぼった。はじめて見た向島の長い土手は桜の花の雲にうずもれて見える。鐘ヶ淵をすぎると、眼界は多少田園のおもむきをおびてきた。筑波山も花曇りに見えない。見ゆる限りは春の野!
- しかし啄木が桜の花そのもので歌を詠むことは管見のかぎりではありません。
【語釈】「白の服」は真っ黒の制服に対する語で、実は「霜降り」=灰色の制服です。
【解釈】桜の花が散ると、友のだれよりも先に、霜降りの夏の制服を着て表に出るわたしだった。
- 啄木は中学二年生の(明治32年)5月13日に盛岡の洋服店で夏服を注文し、15日夕方に受け取ったようです。当時の盛岡なら桜はもう散っていたでしょう。さっそく出来立ての「白の服」(上着は短く、ズボンはラッパズボンで太く長い)を着て、あこがれの先輩(後の海軍大将)及川古志郎のかっこうを真似て闊歩したようです。
- さてこれが「先づ人さきに」だとすると、少年の微笑ましい稚気に過ぎません。
- ところが石川啄木の生涯をよく知ると同じ七文字が別の様相を見せます。「人より先に見え、感じ、認識してしまう不思議な力の萌芽」を、もっと言えば先見性の、さらに言えば予言者的資質の萌芽を見せるのです。
- なによりもその予言が壮観でした。第一次護憲運動・米騒動・大正デモクラシー運動、の予言。東京大空襲の予言。大気汚染の予言。自然破壊分けても森林破壊という人間の原罪の予言・警告 →「其の道は……(人間が)地獄の門に至るの道なるを知らざるか」と、などなど。
- 「先づ人さきに」は、こうした成果を生み出す啄木の資質の萌芽を示してもいるのです。
<真生流機関誌「真生(SHINSEI)」2020年 no.312 季刊>(華道の流派)