〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「ツツジ=躑躅」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-


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-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

躑躅

      わが庭の白き躑躅

      薄月の夜に

      折りゆきしことな忘れそ

 

 


 

初出「一握の砂」

 私の庭の白いつつじを、おぼろ月夜に折っていったことを決して忘れなさいますな。

 初出は歌集「一握の砂」。宝徳寺の裏庭での上野さめ子女教師との忘れがたい思い出を詠めるもの。

(岩城之徳・編「石川啄木必携」 1981年 學燈社

 

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躑躅

 ツツジツツジ属の低木~小高木。常緑のものと落葉のものがあり,花の大きさ,色はさまざまで,日本に40~50種が自生する。

 花の美しいものが多く,古くから栽培されている。分類のむずかしいグループで,円形鱗状毛の有無,花芽の位置,数,花芽の中の花の数,混芽の有無などによって分類されるが,例外も多い。

 春から夏にかけ、赤・白・紫・橙色などの大型の合弁花を開く。なおツツジ類の材は緻密(ちみつ)で細工物などにもされる。

静岡県 県花

花ことば  愛の喜び・情熱・節制・伝奇 ・初恋

 

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 明治37年の3月、上野さめ子は岩手師範学校女子部を卒業と同時に、渋民小学校に赴任した。そのころ、啄木は第一次の上京に失敗して帰郷、村人達からは「お寺のぶらり提灯」と陰口をたたかれながら、余念なく詩作に没頭し、詩作に倦むと、オルガンをひきに母校に出かける。

 さめ子と啄木は暇さえあれば、寺と学校とを往復して語り合った。(明治39年)4月、啄木も同校の教員となり、半年後、彼女が栄転するまで、啄木にとって校内唯一の話し相手だった。この歌は往年の彼女の姿を歌ったものである。

 啄木は彼女から、小説の素材にするためずいぶんたくさんの世間話を聞き出したらしい。

 明治39年8月27日 日記 「上野女史の話より取る」
『夏の夜。石の巻。北上川。美しき人あり。舟を浮ぶ。海に紫の電す。女は快哉を叫ぶ。岸に笛の音起る。それが河上の方へ遠くなる。又近くなる。一片舟あり、笛の音を載せて流れ来る。朧月夜。・・美しき人は月を賞める。笛を賞める。この一夜は忘れられぬと同行と語る。・・』

(吉田孤羊『啄木発見』 昭和47年 洋々社)

 

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 この「庭」は詩人が育った宝徳寺の裏山、昔は白つつじが一杯咲き誇っていたが、近頃行って見るとだいぶ少なくなっている。
モデルとなったのは、啄木の代用教員時代、一緒に教鞭をとった上野さめさんで、何か意味ありげな一首だが、生前上野さんは、「そんなこともあったかも知れませんが、はっきりした記憶がありません」ともらしていた。
 つつじの花言葉は、節制とか節慾を象徴しているというが、きちんとしたクリスチャンの上野さんには、まことにふさわしい取り合わせといってよかろう。


(吉田孤羊『歌人啄木』 昭和48年 洋々社)

 

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 「白き躑躅」を「薄月の夜」に手折って帰っていった女性のイメージが、こうした描写によって暗示的に描かれている。若い女性の匂いと楚々とした物腰、顔の表情までが薄月の春の景色の中に浮んで見える。

 この夜のことを、あなた、忘れないでくださいよ、とむすぶところに、ロマン的な香りを放つ物語の色を濃くする。

(上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』 2001年 おうふう)

 

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 「な忘れそ」(忘れないで下さいね)と呼びかけられているのは上野さめ子という小学校教師です。・・・この女性は、啄木が当時最先端の文学的話題をもち出すのをしっかりと受けとめられるほどに高い知性の持ち主でした。

 その年の五月三〇日に書いている小沢恒一宛書簡に「稿紙乱堆の中、牡丹と白躑躅の花瓶の下にこの文認め申候。目を放てば窓前満庭の翠色、池にのぞめるほうの木の若葉殊更に心も若やぐ趣きに候」とありますから、掲出歌はこの前後の思い出でしょう。

(近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』 2000年 吉川弘文館

 

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 作歌は1910年(明治43)10月。『一握の砂』(明治43年12月刊)所収。

 さて、『一握の砂』は最初東雲堂から出版されました。この版は啄木が編集・割付をすべて自分でやりました。その際想像を絶する仕掛けを歌集全体に張りめぐらせました。最重要の仕掛けは「一ページ二首、見開き四首」という編集にありました。
 掲出歌は東雲堂版『一握の砂』では126−127ページの見開きの第三首目におかれています。
 その見開きの全体はつぎの四首です。

  わがために/なやめる魂をしづめよと/賛美歌うたふ人ありしかな
  あはれかの男のごときたましひよ/今は何処に/何を思ふや
  わが庭の白き躑躅を/薄月の夜に/折りゆきしことな忘れそ
  わが村に/初めてイエス・クリストの道を説きたる/若き女かな

 一首目。悩める魂を穏やかにしてあげようと、わたしのために賛美歌を歌ってくれた人があった。(はじめてここを読む人には「人」が男女どちらであるか分からない。)
 二首目。ああ、あの男のような魂よ、あの人は今どこに住み、何を思っているだろう。(ここではじめて「人」は女性であると分かる。しかも男優りな女性であると。)
 三首目で「男のごときたましひ」の人のイメージが一変します。その人は花を愛でる女性でした。帰りがけに、あの白い躑躅を手折っていいか、持って帰って部屋に飾りたい、と。ほのかに光る月の下でのことだった。そして詩人は思う。あのときのことをあなたも忘れないでください、と。
 四首目。以上三首を収束しつつ、その女性が当時の「わが村」には希有の「若き女」であったとうたいます。
見開き四首はみごとな起承転結の構成になっています。最後の歌の最後の行に「若い女かな」を持ってきた結句の妙。

「折りゆきし」人は上野(うわの)さめ子という女性です。

 今回わかったことがあります。四首をつくったのは1910年(明治43)10月中旬ですが、二首目に「今は何処に/何を思ふや」とあります。上野さめ子は11月上旬に滝浦文弥というクリスチャンと結婚しました。その式場は本郷教会でした。啄木は本郷弓町二丁目に住んでいましたから、式場は目と鼻の先だったのです。お互いにこの偶然を生涯知らなかったと思われます。

(近藤典彦 「石川啄木と花」第十一回 白い躑躅 <真生流機関誌「真生」2018年 no.307>)

 

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