〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木先輩を査定 釧路の新聞記者としては…*#’*!

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釧路新聞社を復元した港文館と啄木像

新聞記者・啄木先輩を査定 現代なら失格? 口も達者

                      高田誠

 歌人石川啄木が新聞記者だったことはご存じだろうか。1908(明治41)年、北海道東部の釧路には76日間だけ滞在し、釧路新聞(現在の北海道新聞社の前身のひとつ)に書いていた。110年以上たち、新聞は紙からデジタルへと移ろうとしているが、真実を求める目的は変わらない。啄木はどんな記者だったのか。日露戦争後の当時を振り返り、記事を検証する。啄木先輩を査定してみた。

 

北海道・釧路で過ごした76日間

 啄木は08年1月21日午後9時過ぎ、釧路新聞の白石義郎社長とともに釧路駅に到着した。釧路町(当時)の人口は約1万8千人。現在の釧路市の10分の1強だった。

 さいはての駅に下り立ち
 雪あかり
 さびしき町にあゆみ入りにき

 21歳だった啄木は釧路入りした時の様子をこう詠(うた)った。
 町には活気があったようだ。
 啄木は入社に際し、釧路新聞白石社長に意見書を提出した。釧路新聞の編集スタッフの人事や給料に口を出すとともに、「初めに小生に総編集をやらして貰(もら)いたし」と書いた。相当な自信家であることがうかがえる。

 

「ろくな記者いない」ライバル紙をチクリ

 赴任から3日後の日記に「北東新報と云(い)ふ普通の四頁(ページ)新聞が此(この)正月出来た。碌(ろく)な記者も居ぬけれど、兎(と)に角好敵手たるを失はぬ。社では先(ま)づ此敵と戦ひつつ、順次拡張の実をあげねばならぬ」と書いた。「碌な記者も居ぬ」とはひどいが、ライバル紙を相手に張り切っていたことがわかる。
 編集スタッフは4人いた。当時は役所や警察などを回って取材する「探訪員」と、記事にまとめる格上の「記者」は別だった。啄木は記者だった。

 

帝国主義の時代 政府の増税を批判

 日本はロシア戦で勝利し、朝鮮半島の植民地化をもくろみ、帝国主義国家への道を歩み出したころだ。一方で国民は徴兵や増税で不満がたまっていた。啄木は「雲間寸観」などのコーナーを設け、国際や社会問題について論評している。

 

料亭のうわさ話をコラムで紹介

 一方で、料亭の芸妓(げいぎ)たちの動向やうわさ話をコラム風の「紅筆便り」にまとめている。

 

暴風雪の記事自賛「田舎新聞には惜しい」

 3月、釧路は暴風雪に襲われ、50人以上が家屋倒壊などで死亡する災害があった。「北東の烈風雪を捲(ま)いて至り天地晦瞑(かいめい)唯(ただ)巨獣の咆哮(ほうこう)するが如(ごと)き暴風雪の怒号を聞く」という前文で始めている。

 

「人間としては評価できないが、優秀な記者」

「12円80銭」で記事もみ消した?

差別受けたアイヌの記事は書かなかった

 

 啄木は釧路を去った翌09年3月、東京朝日新聞に校正係として入社する。10年12月、歌集「一握の砂」を出版した。12年4月、肺結核のため死去。26歳だった。
 啄木は記者の才能を生かし切らなかったからこそ、歌人・啄木が東京で開花し、語り継がれているのは皮肉である。
◇  ◇  ◇
 釧路市中央図書館の釧路文学館で、企画展「新聞記者・石川啄木」が7月26日まで開かれている。当時の新聞記事など関連資料を展示する。7月5日午後1時半からは北畠立朴さんと小田島本有さんの公開対談「新聞記者としての石川啄木」がある。いずれも入場無料。(高田誠)
(2020-06-21 朝日新聞

 

新聞記者・啄木先輩を査定 現代なら失格?口も達者:朝日新聞デジタル