〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の生涯  26年と53日の生 <啄木の終焉 3>

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ロウバイ

啄木の生涯  26年と53日の生

<啄木の終焉 3>

「一族の終焉」遊座昭吾

 牧水は、「よく安らかに眠れるという風のことをいふが、彼の死顔はそんなでなかった。」と言う。が、京助は啄木のデスマスクをどう見たのであったろう。心にかかるものがある。それは、京助のことばに引かれた節子の「まるで眠くなって眠るように息を引き取ってしまいました。」ということばと、牧水の言う「老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声をたてて泣いてゐた。」という状態から、一禎翁と節子の胸中に、その時何が起こっていたかということである。
 
 一禎翁は僧侶として、人の死を弔ってきた。家族がどんなに泣き叫ぶとも、表情ひとつかえることのない僧の顔を、彼は長い修行の中で得ていたに違いあるまい。その顔が、肉親の死に遇って泣き狂う人々の心に、時には救いすら与えたであろう。牧水の描いた一禎翁には、たしかにその一面がある。「もう駄目です。臨終の様です。」と、置時計を手にとって「九時半か。」とつぶやいたことばに、死と解りつつも、心の片隅に蘇生を祈る俗人の感情を断ち切る意志がのぞかれるし、手早い部屋の片付けや、さかさ屏風の配置にも、すべて翁の指示した死を迎えた時の儀式があった。牧水になにかとまどいさえ感じさせたこの慌しい処置は、あきらかに、翁の僧としての顔からきていた。だが、その一禎翁にも、父として啄木を抱きかかえた時、低いながら鳴咽があった。その鳴咽は──。
 
 通夜は十時頃までは他の二、三人の人も来てはいたが、それ以後はまったく誰もこず死を看取った一禎翁、節子、 京子、牧水の四人だけになってしまった。牧水を除けば、昨夜とかわらぬ久堅町の啄木一家である。節子は、昨夜来ほとんど一睡もしていなかったので、通夜の席でひどく咳をした。一禎翁と牧水は、気を配って、節子親子を無理にも床につかせた。牧水は、すでに六十の坂を越えた一禎翁を、
 
《 かなしきは我が父!
  今日も新聞を読みあきて、
  庭に小蟻と遊べり。
 
とその子に歌はれた老父もまた痩せて、淋しい姿の人であった。》(「石川啄木の臨終」)
と感じながら、世馴れた口調で、魚を釣る話や世間話をして、通夜の時を過ごそうとする一禎翁と二人だけで、啄木の遣骸を見守った。そして、話も尽きての暁の頃、その一禎翁が一枚の紙に、
 
《 「母ゆきていまだ中陰も過ぎぬにその子また失せにければ」と前書きをして、 
  さきたちし母をたつねて子すすめの死出の山路を急くなるらむ 》(「石川啄木の臨終」)
 
と歌を書き、その心の一端を示したという。
 
 節子の涙は──。夫の死を「眠くなって眠るように……」と告げた心の内奥には。節子は夫の友人であった金田一京助若山牧水土岐善麿に、葬儀の一切を託し、こまごまとしたことでは老父の指示を仰いだ。とくにも晩年の友であった善麿が、自分の生家、兄の営む浅草松清町の等光寺を提供してくれたのには、深い感激を覚えた。

 

 (『石川啄木の世界』遊座昭吾 八重岳書房 1987)