真生(SHINSEI)2019年 no.311
「石川啄木と花」 近藤典彦
第十四回 白蓮
白き蓮沼に咲くごとく
かなしみが
酔ひのあひだにはつきりと浮く
作歌は1910年(明治43)8月8日。初出は東京毎日新聞(明治43年8月31日)「何にもかも」(五首)の一首。『一握の砂』(明治43年12月刊)所収。
一行目は、無垢の白蓮が濁った沼に咲くように、となるでしょう。
「白き蓮(白蓮)」は泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせることから、仏教では仏の智慧や慈悲の象徴とされます。青・黄・紅・白の蓮華のうち白蓮が最上の蓮華とされます。啄木は曹洞宗の寺の生まれなので、「白蓮」の特別の意味を知っていた、あるいは感じていたと思われます。
さて、酔いを時の間忘れさせる「かなしみ」とは、どんなかなしみなのか。
わたくしがこの歌をはじめて読んでからすでに65年も(!)経ちますが、本稿に取りかかる最近まで、この「かなしみ」を理会できませんでした。ようやくカギを見つけました。双子の歌があったのです。啄木は明治43年8月8日、歌を二首だけ作りました。
白き蓮沼に咲く如く悲しみが酔ひのあひだにはつきりと浮く
何もかも行末の事みゆる如きこの悲しみは拭ひあへずも
東京毎日新聞の短歌欄に「何もかも」五首を載せたときもこの順番でセットになっています。「白き蓮」の歌の「悲しみ」だけでは表現しきれないものを、二首目に託したのでしょう。
(中略)
近藤典彦氏のウェブサイト
◎ 2009年4月17日 『一握の砂』全歌評釈
http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage8.html
(全体の中央より少し下に「何もかも」の歌の評釈があります)
◎ 2010年1月2日 『石川啄木伝』
http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-f19e.html
◎ 2020年1月1日 『石川啄木伝』
http://asahidake-n.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/index.html
(今年、再び連載が始まりました。ぜひお読みください。「啄木の息」管理者)
…… 以上を踏まえると掲出歌の意味はこうなりましょう。
【解釈】秋水の行く末を思うかなしみが、酔いを吹きはらい、白い蓮が沼に咲くようにはっきりと、わたしの心に浮かび上がる。
<真生流機関誌「真生(SHINSEI)」2019年 no.311 季刊>(華道の流派)