〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

「一握の砂を示しし人」の「人」は、男か女か、恋人か親か友人か? 8月のインドで

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[パンパースグラス]

 

エッセイ

 八月のインド・啄木短歌の翻訳をめぐって

               池田 功


インド・デリーでの生活

  • 日本の大学の休みを利用して8月の1カ月間インドのデリー大学院生に日本文学や文化を教えることになった。
  • デリーには4000人以上の日本人が住んでいるというが、そのほとんどはニューデリーであり、そこは近代的な建物や店や施設が備わっている。しかし、私が滞在していたオールドデリーは昔のままであり、近くにコンビニエンスストアやスーパーマーケットは全くない。
  • この国は「平均」が意味をなさない。13億の民は、経済的には上か下の階層に分かれ、日本のような中間層は少ない。870程の言語があり、22の公用語が定められている。
  • インドでは多くの人がナイフやフォークを使わず右手で器用に食事をする。驚いたのは、食事の前にはほとんどの人が手を洗わない。神聖な右手で食べるのであるから大丈夫なのであろう。また、宗教的なことから、ベジタリアンが圧倒的に多い。厳格な人になると卵も魚も食べない。そういえば、大学のゲストハウスの1カ月間、卵やチーズは毎日出たが、肉(チキン)が出たのはたったの2回だけであった。私の身体もベジタリアンなものになっていた。

 

石川啄木セミナー

  • 『一握の砂』の551首中の39首(7%)に、また『悲しき玩具』では194首中の25首(13%)に、オノマトペが用いられている。両歌集のオノマトペをあえて擬音語と擬態語に分けて比較すると、その使用率では『一握の砂』がほぼ半々であるのに対して『悲しき玩具』は99%が擬態語になる。つまり、前者は比較的リズミカルな聴覚の世界であるのに対して、後者は視覚の世界になるというようなことが、オノマトペの分析から分かるということを話した。
  • その後、デリー大学ネルー大学の先生方や大学院生が、それぞれ啄木短歌を翻訳という視点を中心に発表した。私が興味深く感じ印象に残った点だけを取り上げてみたい。
  • まず、インドというとヒンディ語であると、すぐに考えてしまうのは必ずしも正しいことではないということを肌で感じたことである。発表者は、それぞれの出身地の言葉で翻訳してくれた。そういうと日本人は「方言」と勘違いするかもしれないが、そうではない。言語そのものが全く異なり、お互いに通訳や翻訳が必要なのだ。ヒンディ語もまた地方の言葉なのだ。出身地ごとに彼らはその土地の言語への愛着があり、誇りがあるからこそ、その言語を披露してくれている。もっと言えば、啄木短歌の翻訳を通じて発表者は自らの存在を言語によって語っているのである。それだけにその言語に翻訳された啄木短歌が、私には愛おしいものに感じられた。おそらく初めてのオディア語訳であり、ベンガル語訳であり、ウルドウ語訳なのだ。
  • オノマトペを自らの言語に訳す時の苦労を話してくれた。例えば「さらさら」や「しっとり」など。さらに、「一握の砂を示しし人を忘れず」の「人」は、男なのか女なのか、恋人なのか親なのか友人なのか迷った。「蟹とたはむる」の「蟹」は単数なのか複数なのか。「大という字を百あまり」の「大」という漢字を、漢字文化圏ではないインドの言語にどう訳すのか等々ということの問題が指摘された。いずれも翻訳にとって重要な問題である。
  • インドの地で日本の短歌の翻訳や内容が、多岐にわたり真剣に考察され発表されたことは大変嬉しいことであった。インドの研究者、そして学生たちに感謝したい。

(「りとむ」159号 2018年11月[りとむ短歌会発行]) 池田功(明治大学教授、国際啄木学会会長)