「番町文人通り」
啄木が通った「大橋図書館跡」
東京家政学院大学・高等学校・中学校の門前
右手前にある赤い保存プレートが「大橋図書館跡」を示している。
大橋図書館とは
三康文化研究所附属三康図書館は、東京都港区芝公園にある私立図書館である。この図書館の前身は、「大橋図書館」という名であった。
石川啄木は、明治35年〜明治43年ころに幾度かここに通った。
1902年 明治35年
大橋図書館跡
大橋図書館は大橋佐平の提唱でこの地に創設された近代日本の私設図書館のさきがけである。
本館の前身となった大橋図書館は、1902年(明治35年)に、当時日本有数の出版社であった博文館の創設15周年記念事業として、博文館の創立者である大橋佐平・新太郎父子が設立した私立の公共図書館である。
- 1902年(明治35)6月15日 大橋図書館開館。
- 1902年(明治35)6月20日 44,540冊で一般閲覧を開始。
開館時の建物は、本館は木造2階建で、2階に普通閲覧室(168席)、1階に新聞雑誌閲覧室(100席)が置かれていた。書庫は煉瓦造3階建で、15万冊が収容可能とされていた。
開館時の規則では、利用資格は満12歳以上、有料制で図書は1回3銭、雑誌は1回1銭5厘。10回綴は24銭。閉架式で資料の館外持出は禁止されていた。
写真左側が正面玄関。手前は大橋邸。本館は木造モルタル2階建、本館裏側の書庫は煉瓦3階建。
1902年(明治35)6月に開館した図書館に、啄木はその年の11月に行っている。
啄木はこの時、16歳。『明星』に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」が「白蘋」の筆名で掲載され、盛岡中学校を退学した。文学で身を立てるべく渋民を出発したのが、10月30日。
新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪問したのは、11月10日。
そして、11月13日には大橋図書館に行った。
閲覧は有料だったため、連用求覧券を買った。
啄木日記
秋韷笛語
明治三十五年日誌
十一月十三日 快晴、
午前英語。
午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。
猪川箕人兄の文杜陵より来る、人間の健康を説き文学宗教を論じ、更に欝然たる友情を展く。げにさなりき、初夏の丑みつ時の寂寥を破りて兄と中津川畔のベンチに道徳を論じニイチエを説きし日もありきよ、その夜の月今も尚輝れり、あゝ吾のみ百四十里の南にさすらひて、故友とはなるるこの悲愁!!! まこと今は天の賜ひし貴重なる時也、さなり、思ひのままに勉めんかな。友よさらば安かれ。
Shakespeare's "Coriolanus" 求む。
夜ぞふかき空のこなたの旅仮寝さてもかくての夢ならん世か。
落つる葉の身の夕枯やからなりや旅なる窓の小さき袂や。
つみて掩ふてはなたざるべき白百合のみ胸秋なる吾袖めすや。
夕星の瞬き高き雲井より落ちし光と吾恋ひむる。
(二首十四日せつ子さまへ)
十一月十六日 晴、日曜日、
大橋図書館に一日を消す
帰路、中西屋より Mauriers novel "Trilby" "Selected poems from Wordsworth's" 求む。
杜陵より金矢朱絃君の端書きたる。歌あり曰く、
その日君、泣く人みきと日記にあり若きにたえん旅ならばこそ。
十一月十八日、
午前花郷兄への手紙かいてしまつて、渋民への絵葉書と共に投函した。
午後は図書館に「即興詩人」よむ。飄忽として吾心を襲ふ者、あゝ何らの妙筆ぞ。
渋民より夜具来る。お情けの林檎、ああ僕ただ感謝の誠を以て味つた。明星。掛物。足袋。
この夜は温かな母君の手になつた蒲団の上に安らかな穏かな夢を恋人の胸にまで走した。
十一月廿二日 土曜日、
午後図書館に行き急に高度の発熱を覚えたれど忍びて読書す。四時かへりたれど悪寒頭痛たへ難き故六時就寝したり。折悪く坂下の小社の縁日の事とて雑駁の声紛々として耳を聾せしめんとす。かくて妄想ついで到り苦悶のうちに眠れるは九時すぐる頃なりき。終夜たへず種々の夢に侵さる。「即興詩人」中に世界を美しき乙女にたとへて、世の人はその局所細繊の所のみを詮索すれども、詩人は全体の美しきを観照して吟咏す云々の条あり。以て詩人芸術家一般の批判となすべし。
明治43年、啄木24歳。
東京朝日新聞社校正係として就職。床屋の二階に家族を呼び、共に暮らしていた。
『二葉亭全集』の校正の仕事をし、初めての自分の歌集編集を始めたころ。
啄木日記
明治四十三年四月より
四月二十六日。
休みの日であつた。二葉亭全集第二巻の原稿引合せのために大橋図書館へ行つた。筆耕に書かした原稿は非常に疎漏なものであつた。図書館の中の空気は異様な気分を与へた。
図書館! あすこは決して楽しい場所ではない。
帰つて来ると、宮崎君から二十円の為替と電報が届いてゐた
東京家政学院の門前
- 1911年(明治44)1月6日 館外貸出を開始
啄木は母も妻もそして自身も高熱などに悩まされ、1912年(明治45)1月には、「新年らしい気持ちになるだけの気力さへない新年だつた」と日記に書く。同年4月13日午前9時30分、石川啄木死去。享年26歳。
*参考 三康文化研究所附属三康図書館HP
石川啄木全集 筑摩書房 1986年
石川啄木事典 おうふう 2001年
二松学舎ニュースマガジン「學」2014.7
(おわり)