〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 東京都 千代田区 番町「文人通り」+ 啄木が通った大橋図書館跡 <2>

啄木文学散歩・もくじ


「番町文人通り」


有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

石垣に取り付けられている。





有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

白樺派の作家・有島武郎(1878〜1923)をはじめ、有島生馬(1882〜1974)、里見弴(1888〜1983)ら作家兄弟がここで育った。彼らの父が明治29年にここを購入し、自邸とした。






有島武郎 同人「白樺」に参加。作家。
有島生馬 武郎の弟で画家、『白樺』創刊に参加。
里見弴   武郎、生馬の弟。作家。






泉鏡花旧居跡

泉鏡花(1873〜1939)が明治43年(1910)から死去まで、「婦系図」のモデルでもあった愛妻すずとここで暮らした。「夜叉ヶ池」や「天守物語」などはここで生れた。





泉鏡花の作品

『夜行巡査』『外科室』『高野聖』『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』





島崎藤村旧居跡
塀に取り付けられている。






島崎藤村旧居跡
島崎藤村(1872〜1943)が昭和12年から6年間ここに住んだ。「巡礼」や「ふるさと」などはここで生まれた。






島崎藤村の作品
若菜集』『春』『破戒』『新生』『夜明け前』『東方の門』






藤田嗣治旧居跡
記念碑として建てられている。







孤高の国際的洋画家
藤田嗣治旧居跡


藤田嗣治は、明治十九年十一月二十七日、東京牛込に生まれた。
大正二年パリに渡り、やがてエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍。日本人で初めて国際的な評価を得た洋画家であった。とくに彼の描く「乳白色の肌」は、他の追随を許さない独自の画風であった。
昭和十二年七月、この地にアトリエを新築。昭和十九年に小淵村へ疎開するまで居住した。この頃に君代夫人と結婚し、新婚生活をこの地で過ごした。また軍部の依頼でこの時期から多くの戦争記録画を制作したが、戦後そのために糾弾される。昭和二十四年渡米した後フランスに渡り、再び日本へ戻ることはなかった。
晩年はフランスに帰化し、レオナール・フジタとして昭和四十三年一月二十九日、チューリヒで死去した。享年八十一歳。


120年目の生誕日に、ここ旧居跡地に記念碑を建立し、彼の画業を顕彰する。
             平成十八年十一月二十七日 六番町町会





滝廉太郎レリーフ、譜面の彫ってある大理石、顕彰の銅板、右上の案内板。

角地にこれらが収められていて、車と人の行き交う交差点に静かな空間を作りだしている。







(都旧跡) 滝廉太郎居住地跡


 滝廉太郎 は、この交差点から西に一〇〇メートル程の所(一番町六番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治二十七(一八九四)年ごろから三十四(一九〇一)年四月まで居住していました。今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。
滝廉太郎は明治十二(一八七九)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同二十七年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。
明治三十四年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、同三十六(一九〇三)年六月二十九日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。
滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年九月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。


  平成十七年八月   千代田区教育委員会



23歳と10カ月で亡くなった滝廉太郎


レリーフも若い。




(つづく)