〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <8 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ
小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



8 資料 (1)啄木歌碑趣意書 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!
  資料 (2)小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明



雪中 三角市場の啄木歌碑(2018年)


資料(1) [啄木歌碑趣意書]
小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!
        小樽啄木会 会長 水口  忠
        建立期成会 会長 安達 英明

    
 駅長官舎と石川啄木
明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。、当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。
啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍しますが、十二月にご承知のような事情で事務長小林寅吉と争い、先の見通しもなく憤然として辞表を出し退社します。さいわい社長の世話で釧路新聞に就職のため、翌年一月妻節子などに見送られ中央小樽駅から出発しました。
後にこの時の心境を歌ったのが次の歌です。
   子を負ひて
   雪の吹き入る停車場に
   われ見送りし妻の眉かな
 
 歌碑建立のお願い
啄木にとって駅長官舎、そして小樽駅頭は忘れられないものだったと思われます。
以前この場所に小樽市で建てた木柱に「石川啄木ゆかりの地」「小樽駅長官舎跡」「小樽市」と書かれたものがありましたが、十年前小樽市が旧国鉄から土地を買収し、駐車場を設置した時に撤去されました。
これは書籍、雑誌、観光案内書に紹介され、全国の啄木研究家や啄木愛好家にとっては大事な場所でした。また多くの観光客もここを訪ねて来ました。撤去後あれはどうなったのかという問合せも多くあります。
今年十月、第二十一回国際啄木学会が札幌で開催され、小樽市内の啄木ゆかりの場所を視察することになりました。これを契機に長年の願いである歌碑の建立を計画した次第です。是非皆様のご協力をお願いします。
 
 建立 啄木歌碑のあらまし
  場所  駅前広場から三角市場に上る石段の左側の空地
     (市有地であるが建立についての内諾を得ています。)
  規模  黒に近い中国産御影石
      碑面  150×90
      全高  250
     (碑石 中国産の台石と白御影3段積み)
  碑面  啄木短歌  前記の『子を負ひて・・・・』を刻む
     (揮毫については交渉中)
  碑陰  ・歌碑建立の趣意について  小樽啄木会と建立期成会
      ・協賛された 個人・法人・団体のご芳名を刻字します。
 
 協賛金のお願い
協賛金は一口一万円とし、口数は自由です。ご協力いただけるならば、刻字の都合もありますので、ご連絡をお願いたします。
 締切 2005年9月20日厳守



資料(2) 小林多喜二、退職ではなくクビだった
    朝日新聞 2005年10月30日
  小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明
北海道小樽市に住み、特高警察の拷問を受けて昭和初期に死亡した作家、小林多喜二(1903〜1933)は、勤務先の旧北海道拓殖銀行から、「蟹工船」などプロレタリア文学の執筆を理由に解雇されていた。これまでは「依願退職した」という説も有力だったが、破綻(はたん)後の残務整理をしている拓銀から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した。
複写は「行員の賞罰に関する書類」の一部。多喜二は当時、拓銀小樽支社で書記をしていたが、1929(昭和4)年11月16日の発令で「依願解職」(諭旨)となっていた。
解職の理由として「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月一五日』『不在地主』等の文芸書刊行書中当行名明示等言語道断の所為ありしによる」ことを挙げ、欄外には「書籍発行銀行攻撃」と書かれていた。退職手当金も「1124円14銭なるも半額の560円給与」と記されている。
文学館の玉川薫副館長は「多喜二が辞めた本当の理由がわかる大変貴重な資料だ」と話している。
複写は今夏、辞令書割り印簿や職員表などとともに寄贈された。文学館は11月3日から資料を公開する。






冬の花園公園通り  「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行

この日の天気は他の記録によると〈微雪・寒し〉とある。写真のように冬の公園通りの朝は人通りも少ない。駅まではいつも通勤の道だった。啄木は中折れ帽子にコート、雪下駄のまま荷物とともに橇に乗った。
京子を背負い角巻姿の妻節子は、橇の後ろに従った。
この写真は遮るものがなく正面の丘の上に水天宮の社殿、左の中腹には堺尋常小学校の長い校舎が見える。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)

…小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つていくべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時起床。明日は母と妻と愛児を此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ !!!
明治41年1月18日 啄木日記 明治41年日誌)

115日間の小樽。
啄木は風のごとく「雪下駄のまま荷物とともに橇に乗り」駆け抜けて釧路へ。


このときの単身赴任は、以後の妻節子との行き違いの遠因ともなっていった。




(おわり)