啄木文学散歩・もくじ
小樽市にリンクを張りました。
(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)
* 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影
6 啄木 第一、第二の住居
花園公園通り 明治後期
(「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月)
小樽公園入口の坂上から見た花園公園通り。
啄木一家が下宿した家は、この写真の画面右側・中ほどに位置する。
(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)
(小樽シリーズの最後の写真は、この写真と同じ場所から撮った「冬の花園公園通り」になる予定)
水天宮から花園橋を渡り花園公園通り(「啄木通り」ともいう〈平成17年から〉)を上がっていき、花園十字街の角に「啄木最初の住居・た志"満」がある。
義兄・山本千三郎宅から明治40年10月2日に移転。南部煎餅屋の二階に約一カ月住む。
トある南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之候、四人の一人は小生にてあとは母とせつ子と可愛き京ちやんに候、室は二階二間、六畳と四畳半にて何れも床の間あり、思いしより心地よく候。
(岩崎正宛書簡 明治40年10月2日)
占い師の姓命判断
襖一重隔てた隣室には占い師が住んでいて、啄木は姓命判断を頼む。二週間後に渡された姓命鑑定書には「五十五歳で死ぬ」と書かれていた。啄木は「情けなし」と日記に記す。
もしも「55歳が寿命だった」とすれば、残した命が30年近くもあった!
二階には「啄木の間」がある。
店の人に話を聞くと、「(写真では)右側に見えるタテの柱と右上隅にちょっと写っている横柱が、啄木が住んでいたころのもの」だそうだ。
明治40年11月6日、た志満の裏手にあたる花園町畑14番地の借家(家主・秋野音次郎)に移る。小樽で二回目の住居である。
その場所には、後に「弥助鮨」という店が営業をしていた。1999年の写真が上。間口のあまり広くない店だった。現在は廃業したとのこと。
・・・狭い路地を入つた二軒つづきの平屋で、通路に面した所に九尺の格子窓があつてソコに小さい机を据ゑ、瀬戸火鉢を置いて茶の間を書斎替はりに使つてゐた。(中略)奥の六畳間には畳も襖も入れる余裕がなく、空家同然にして床板の上を下駄ばきで便所通ひをしてる有様であつた。
(「小樽日報記者 石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)
(つづく)