〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」名言巡礼


[サクラとカモ]


[名言巡礼]石川啄木「一握の砂」 [読売新聞]
こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ
  心の叫び最後を支えた歌

  • 26年2か月。啄木の短い生涯は、仕事との格闘の連続だった。20歳で故郷・岩手県の渋民村(現・盛岡市)に戻り、母校の小学校で「日本一の代用教員」を目指すが、熱しやすく冷めやすい啄木は1年後に北海道に渡り、函館、札幌、小樽、釧路を漂泊。新聞記者としてペンを振るうが、残ったのは借金と失意だった。
  • そこで22歳の春、妻子を残し、小説家たらんとの大望を胸に単身上京する。が、待っていたのは再びの挫折。小説は没の連続で、ほとんど金にならず、生活も荒れ果てた。
  • 10代から親しんだ歌が噴出したのは、そんなどん底にあった1908年6月23日である。初日は<頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず>など55首。24日は<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>など50首。25日には<たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず>など141首。歌は「小生の遊戯なり」という言葉を残した啄木にとって、歌は仕事というより心の叫びだった。
  • 晩年の作は痛切だ。<呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!>
  • 石川啄木記念館の森義真館長は、「人生の最後、他の仕事が出来なくなってからようやく啄木は、歌をわが思いを託するに足る文学と思ったのではないか」と語る。没後に出た歌集の表題「悲しき玩具」は、生前の随想「歌のいろいろ」にある文章をもとに友人が命名した。

 <歌は私の悲しい玩具である>
(文・鵜飼哲夫)


(2018-03-25 読売新聞)


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