◎文芸誌 「視線」第8号 2018.1 <その1>
(「視線の会」発行 坂の町 函館から発信する 新しい思想 新しい文学 新しい生活)
特別企画 『一握の砂』論考
◯ 『一握の砂』 ──その成立・構造の考察────
近藤典彦
『一握の砂』の成立
- 啄木は1910年(明43)3月中旬〜4月中旬の約1ヶ月間に、啄木調を切り拓いた。作品の主な発表の場は東京毎日新聞、東京朝日新聞であった。4月2日東朝の社会部長渋川柳次郎から大きな励ましを受けた啄木は歌集の出版を考え、4月11日に編集を終えた。「仕事の後」(第1次)である。啄木調の詠出は始まったばかりである。歌集は出版できなかった。
- しかし4月19日(推定)に作り、「創作」5月号に載せた歌々はまさしく啄木調を確立している。
手套をぬぐ手ふと休む何やらむ心かすめし思出のあり
かなしきは飽くなき利己の一念を持てあましたる男なるかな
こみ合へる電車の隅にちゞこまるゆふべゆふべの我のいとしさ
函館のかの焼跡を去りし夜の心残りを今も残しつ
頬の寒き流離の旅の人として路問ふほどの事言ひしのみ
- 妻の出産費用を稼ぐためにあらためて歌集出版の必要が生じた。そして8月3〜4日にあたらしい「仕事の後」(第2次)の編集を終えた。
- 9月9日夜、時代閉塞の現状と韓国併合をきびしく批判するかれは39首の歌を作る。
地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く
明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも
売ることをさしとめられし本の著者に道にて会へる秋の朝かな
何となく顔が卑しき邦人の首府の大空を秋の風吹く
- 啄木調の真価の認められる日が来た。渋川柳次郎が朝日歌壇の選者に24歳の石川啄木を抜擢したのである。
- そして10月4日東雲堂との間に歌集の出版契約が成立した。持ち込んだ原稿は第3次「仕事の後」である。
(以下略 『一握の砂』の構造 ──著者・作品・構成──)
〇<その2>「教科書に掲載されている啄木の歌」(栁澤有一郎)へ 続く