〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「矢車草 <5> おわり」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <5>」


-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ
     友の恋歌
     矢ぐるまの花


函館の青柳町──そこにはまさしく友がいて、友情の花が咲いていた。まだまだ自分も未来を信じていいのだと、ひそかに心に呟いたことであろう。のちに「死ぬときは函館で死にたい」と啄木に言わしめたのは、友情に支えられた日々の記憶であったことは疑い得ない。
そしてこの時期の啄木にとってもう一つの大きな収穫は、たびたび催された歌会が、彼に再び歌をもたらしたことだろう。与謝野鉄幹の勧めで短歌から詩に移っていた啄木が「二年も休んで居たので、仲々出ぬ」と唸りながらも、しだいに五七五七七のリズムを取り戻していく。苜蓿社でのこの体験がなければ歌集『一握の砂』はなかったと言っても過言ではない。
(『啄木と郁雨』 山下多恵子 未知谷 2010年)


啄木は座談の優れて面白い人で、親しみのあるお国なまりで、あの明哲な理智を閃かしながら、明快な調子で、話し続け、いつも話題の中心になっておりました。そして、それらの人達の話題が結局、恋愛問題に落ち着いていくのが毎度のようになっておりました。
この歌は、啄木が当時を懐かしんだ歌であります。こうした夢のような生活を毎日送っておりました一方に、啄木は本当はひどい生活苦に追いつめられていたのであります。
自分の着て寝る夜具まで売って旅費を作って函館へ来た啄木は、その日からでも働かなければならない境遇にあったのであります。幸い苜蓿社関係の人の世話で、商業会議所へ入ることになりましたけれども、これは日給60銭の臨時雇でありましたので、わずか三週間ほどで、御用終いになってしまいました。それでも12円あまりの手当をもらいましたから、大いに助かったと思います。

(「啄木研究」 昭和55年 第5号 宮崎郁雨 洋々社)


ふるさとの渋民を去り、北海道への旅に立ったその時から、詩人石川啄木の心に、「漂泊」という二つの文字が刻みこまれます。きびしい試練が訪れたのです。その時、まだ二十一歳の若さでした。
その啄木を函館に呼び、迎えたのは、青柳町に住む苜蓿社という文学グループの、若い人びとでした。中央に名の知れた詩人石川啄木を、この北海の地に迎え入れることは、彼らにとって誇りであり、喜びでもあったでしょう。
苜蓿社の文学青年たちは、いつも啄木を中心に、熱っぽく北の文学を語り、情熱と恋とをたたえます。そして、ときには、悲しい恋の化身と語りつがれている「矢ぐるまの花」に、その恋の思いを託します。啄木は自分を慕うこの若い人びとに、過去の自分の姿をダブらせて、彼らをあたたかく見守りました。そうした忘れがたき人びとを、今、東京にあって思い出す時、青柳町は啄木の心に、悲しくも、懐かしくよみがえってくるのです。

(『啄木秀歌』 遊座昭吾 八重岳書房 1991年)


       


(「矢車草」おわり)