2 「田中正造翁之墓」と「啄木歌碑」
「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と「啄木歌碑」
夕川に葦は枯れたり
血にまとう民の叫びの
など悲しきや
石川啄木
碑文
近代日本の先駆者田中正造翁は 明
治三十四年十二月十日第十五議会開
院式から帰る途中の明治天皇に足尾
銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民
の窮状を直訴する 当時盛岡中学
四年在学中の啄木はこの感動を三十
一文字に托した 奇しくもこの年
創立された県立佐野中学校(第四中学)
の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃
を与え作文その他に残されている
「夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」 (鉱毒)
(白羊会詠草)
『啄木の歌 その生と死』碓田のぼる
- この歌は、現代の公害の元祖ともいえる、足尾銅山の鉱毒について歌ったものである。
- 栃木県選出の代議士田中正造は、明治34年12月10日、61歳の老躯をなげ出して天皇への直訴をおこなった。幸徳秋水の筆になる直訴状を右手に、天皇の行列にたち向っていったのである。
- 啄木伝記によれば、明治35年1月29日、中学四年生であった啄木は、友人たちと、青森歩兵第五連隊第二大隊の兵士290名が、八甲田山の雪中行軍でついに遭難した事件(1月25日)を報じた『岩手日報』の号外を売って、その利益を足尾鉱山の鉱毒に泣く災害民に義捐金として贈っている。
- 啄木が足尾の救援カンパ運動──いまようにいうならば──にとりくんだのは、田中正造の直訴事件が大きな衝撃としてあったからであろう。啄木の鉱毒の歌の作歌日時はまったく不明であるが、私がひそかにもっている仮説は、直訴事件以降翌年1月はじめにかけての頃であったろうということである。
- ところで、この歌の「血にまどふ」という第三句は、前後の脈絡をはなれて唐突である。それが一首の感動の収斂をさまたげている。しかし内容としては、明治33年2月の、権力による流血の弾圧事件をおさえているであろうことは想像に難くない。
- 「葦は枯れたり」とは、まさに鉱毒によってひきおこされた事態の形象であるが、直訴状の中の「黄茅白葦」という、茅も葦も、異常に変色した姿と対応していよう。片山潜の編集していた『労働世界』も「熱誠なる田中正造翁は遂に直訴を為したり、吾人は翁の心事に無限の同情を表する者なり」(明治34年12月21日。第百号)と記して、鉱毒事件への深い関心を示している。
- 以上のことを一応おさえて、啄木の「夕川に」の一首をよむと、あらためて啄木の悲憤の息づかいを感ずる。
『啄木の歌 その生と死』碓田のぼる 洋々社 昭和55年
(つづく)