〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 石川啄木と足尾鉱毒事件の田中正造

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2009年初春」からの再掲)
栃木県佐野市 石川啄木足尾鉱毒事件の田中正造


足尾銅山鉱毒問題に生涯をかけた田中正造の足跡を訪ね、正造の墓と石川啄木の歌碑のある「佐野厄除け大師」に初詣した。


1 佐野市郷土博物館 田中正造ゆかりの博物館  

佐野市郷土博物館の門前」

写真左手の白い柱の間が正門。柱と柱の間に小さく田中正造銅像が見える。
館内は佐野市を中心とする地域の原始時代から現代への考古・歴史・民俗等に関する資料が展示されている。
 



田中正造銅像

等身大と思われる。製作者は本郷寛氏。

田中正造展示室は足尾鉱毒事件の解決に一生を捧げた、田中正造の資料を展示。

◯ 直訴状
1901年(明治34)12月10日、正造61歳(満年齢では60歳)。正造の考えを元に幸徳秋水が起草し、さらに正造が加筆訂正した謹奏文(直訴状)が展示されている。
直訴状を現代語にすると「足尾銅山鉱毒被害を解決するためには、渡良瀬川の水源を清め、流路を自然に戻し、被害地の毒土を除去し、沿岸の天産と衰弱した町村を回復させ、銅山の操業停止が急務」と訴えている。(下野新聞 田中正造物語-24)


◯ 直訴当日のこと
その日は朝から晴れていたという。第十六回議会開院式を終えて皇居に帰る天皇の馬車は、前後に百人を超える警護隊を従えて貴族院(現経済産業省別館)を出た。道路両側は群衆で埋まっている。馬車はスピードを緩めながら交差点を左折した。その時、衆議院議長官舎(現中央合同庁舎第五号館別館)前から人込みをかき分けて駆け出す男がいた。正造だった。
「お願いでござります、お願いでござります」
外とう、帽子、襟巻きを脱ぎ捨て、右手は「謹奏」と書いた直訴状を掲げている。だが馬車の手前で足がもつれひざをついた。道路沿いで警護していた警官二人がとっさに手を掛け、正造はあおむけに倒された。近衛騎兵がやりで突き刺そうと近づいたが、馬が暴れて振り落とされた。この間に正造は取り押さえられていた。天皇の乗った馬車は何事もなかったかのように走り去っていた。(下野新聞 田中正造物語-22)
 



「正造の遺品 信玄袋と小石3個」(佐野市郷土博物館パンフレット)

他の展示品は、正造日記、手紙、蓑、笠、紋付き、信玄袋と小石三個など。正造は石の収集が趣味だったという。三つのうちの一つは化石のように見えた。





2 田中正造 生家と墓所
 

田中正造 邸宅」

道路に面し、西に表門を配して立つ二階屋は、正造の両親の隠居所だった。  


◯ 若き正造
正造は安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の家に生まれた。17歳(満年齢では15〜16歳)で父の後を継ぎ名主となる。
23歳(満年齢では21〜22歳)の時、石塚村の大沢カツ(満年齢では13〜14歳)と結婚した。この結婚については、「裁縫の習い事から帰るカツを待ち伏せた正造が、彼女を草刈りかごに入れ背負って家まで連れてきてしまった」というほほえましいエピソードが残っている。(下野新聞 田中正造物語-4)
 
 



「横道から見る隠居所」 

◯ 正造邸 その後
政治活動に没頭して不在がちだった正造は、この家に医師を迎え入れて村の診療所として役立てた。隠居所には正造の父と妻カツが住み、母屋には医師が住んでいた。
正造は亡くなる前、故郷のために、宅地と田畑の全財産を村に寄附した。この邸は佐野市の公民館第一号として、有効に使われた。
  



田中正造翁の墓の説明板」

生家の直ぐ前に道路があり、それを挟んで墓所がある。

  



正造の六分骨の1つが、ここに葬られている。
 



「墓石」

屋根の下の石碑には「義人 田中正造君碑」とある。写真にはよく写っていないが、下方に正造の立て膝をした姿が彫ってある。
 



3 渡良瀬遊水地と旧谷中村
 

「谷中湖の案内板」

渡良瀬遊水地は、栃木・群馬・埼玉・茨城にかけて広がる大遊水地。「谷中湖」は遊水池内の貯水池の一つの通称。地図で見るとハート型をしている。
 



「枯れたヨシを映す水」

◯ 谷中村と正造のたたかい
この遊水地の場所に「谷中村」と呼ばれる村があった。
谷中村は、明治中頃、2,700人が住む農村だった。全く肥料を必要としない程の豊かな田をもっていた。
足尾銅山鉱毒問題が起きてから、鉱毒水を沈殿させるための遊水池設置計画が進み、その場所に谷中村が選ばれた。村民は反対したが、政府は買収を進めた。
田中正造衆議院議員として1891年(明治24)、帝国議会で初めて鉱毒を取り上げ「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出した。以後亡くなるまでの22年間にわたって政府や銅山の責任を追及した。
1901年(明治34)12月、正造は、衆議院議員の職を辞して、明治天皇足尾鉱毒事件の解決を求める直訴を試みた。
 



「遺跡 谷中村の説明板」

現在、「谷中村遺跡を守る会」が、遺跡の保存と村民と正造の闘いの精神を残す活動をしている。
取り壊されてしまった屋敷跡、雷電神社跡、延命院墓地跡、役場跡などが丈高いヨシの間に点々とあり凄まじい光景である。
 



「大野孫衛門屋敷跡」

人気のないヨシの道を歩いていくと次々に遺跡が現れる。
 



「渡良瀬遊水池の今」

渡良瀬遊水池では毎年3月末ころに「ヨシ焼き」を行い、害虫駆除や樹木の種等を焼いて樹林化を防ぎ、良いヨシを作っているそうだ。藤岡町建設課のおしらせによれば、今年、2009年は、3月21日(土)08:30から実施する予定。
丈高いヨシのほかにスゲもある。かつての谷中村ではスゲの笠が収入源だったとのこと。佐野市郷土博物館にも正造が使ったスゲ笠があった。
 




4 佐野厄除け大師 = 春日岡山惣宗寺
 

「佐野厄除け大師山門」

厄除け大師は春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ)といい関東三大師として有名である。
 



「山門をくぐって」

門を入り左に進むと、正造の墓が見えてくる。写真では左の大きな二本の木の間の高い石が正造の墓である。その前の四角の石碑に啄木の歌が彫られている。
 




5 石川啄木田中正造
 

「こんな近くに啄木と正造」

正造の墓石には渡良瀬川流域産の石を使い、「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と彫られている。毎年9月4日命日に法要が行われる。
 




石川啄木歌碑」

(注:歌碑には「血にま『と』う」とあり、春日岡山縁起にも同じく書かれている。「石川啄木全集 第一巻」(筑摩書房/1978)には、「血にま『ど』ふ」となっている)


直訴は、正造がつまづき警官に取り押さえられたことで終わってしまった。しかし、鉱毒被害への支援は、直訴以降さらに活発となった。その一つが、啄木たちの活動であった。


◯ 年譜より
1902年(明治35)1月29日、岩手県立盛岡中学校4年、15歳の啄木は、友人の伊東圭一郎や小野弘吉、阿部修一郎らユニオン会有志と「岩手日報」号外(青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件)を売って義援金を募り、足尾鉱毒地の被災者に送っている。(「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001、「石川啄木伝」岩城之徳/筑摩書房/1985)


◯ 「人間啄木」より
 号外売って足尾へ義金
われわれユニオン会員が号外を売って、足尾鉱毒被災地へ義援金を送ったことも、中学時代の思い出のひとつである。
新聞で鉱毒問題を知り、小野、阿部、啄木、伊東その他二、三人集まって、「われわれも、なにかひとつやろうじゃないか」といっていたところへ、誰だったか駆け込んできて「岩手日報社で、今号外を出すところだ」と知らしてくれた。それが八甲田山遭難事件の号外だった。
小野さんが日報社の新聞配達をしていたので直ぐ話がつき、号外を抱えて町へ飛び出した。「号外、号外、号外は一銭」とやってみた。凍死者はほとんど岩手県出身者で、その氏名が次々に続いて発表されるので、二晩か三晩、号外を売ったような気がする。二十円たらずの金を、内丸のキリスト教会へ寄託したように記憶している。
啄木はその当時すでに、社会運動に関心を持っていたように書いている本もあるけども、そのころの啄木は、両親に可愛がられ、まだ貧乏の味も知らない恵まれた文学青年で、軍人熱はさめていたが、まだ、鉱毒問題に熱を上げるほどではなかった。この時の主唱者は小野と伊東であったように思う。
(「人間啄木」伊東圭一郎/岩手日報社/1996)
  




「啄木歌碑の裏」

碑陰には、「奇しくも石川啄木生誕百年を記念して  昭和六十一年九月四日」とあった。
 



 
6 正造の家族・正造の最後・遺骨

◯ 正造の家族
カツ夫人は「結婚して五十年になりますが、一緒にいた日数はやっと三年くらいのものでしょう」(柴田三郎著「義人田中正造翁」=1914年)と語る。(下野新聞 田中正造物語-35)
父はこんな狂歌を息子に贈った。「死んでから仏になるはいらぬこと、生きているうちよき人となれ」。(下野新聞 田中正造物語-8)
正造とカツの間に子はなかった。


◯ 正造の最後と葬儀
正造は同志らに金を借り続けた。正造の口車に乗せられて金を貸したが返してもらえない。家族は食うものもない。親せきなどから借りてまで貸したのに返済がない、と周囲の人たちの声が残っている。(下野新聞 田中正造物語-29)
請願行動をはじめ、仮小屋建設など金のかかる運動を続ける正造に、返すあてはなかったろう。
1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用認定を公告し抵抗していた16戸を破壊した。それでも谷中に仮小屋を立てた村民と正造は、抵抗を続けた。一方、谷中村民の集団移住も始まった。
正造は1913年(大正2)病に倒れ、9月4日死去した。死因は胃ガン。享年71歳10ヵ月。
同年10月12日に正造の葬儀が佐野厄除け大師( 春日岡山惣宗寺)で行われた。渡良瀬川両岸被害地はもちろん全国各地より人々が参集した。町中心部を長い葬列が進み、沿道は別れを惜しむ数万の群衆で埋まったという。
 



「田中霊祠の説明板」

佐野市中心から渡良瀬遊水池に向かう途中に「田中霊祠」がある。この霊祠には、正造の分骨と妻カツ子を祀ってある。





「田中霊祠御堂」
 
正造の遺骨は六カ所に
正造の遺骨は葬儀後の協議を経て、生前ゆかりのあった次の5カ所に分骨され墓が建てられた。佐野市小中町の阿弥陀堂境内、同市金井上町の惣宗寺境内、藤岡町の田中霊祠、群馬県館林市の雲竜寺境内、埼玉県北川辺町の西小学校敷地内。その後1989年に足利市野田町の寿徳寺に埋葬されていることが判明し、分骨地は計6カ所となった。(下野新聞 田中正造物語-34)





夕川に葦は枯れたり血にまどう民の叫びのなど悲しきや
石川啄木     


(2009年初春)

  
* 「啄木と足尾鉱毒水俣病
    田中正造の直訴状を歌に詠む  近藤典彦
 

   夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや
 
石川啄木1886年生まれだから、今年は生誕百二十周年である。
本紙4月30日付三面に「水俣病 公式確認五十年」の記事が載った。見出しに「国、一度も全容調べず」「多くの被害者を放置」「全員救済は政治の責務」とある。見出しはすぐに足尾鉱毒事件を連想させ、筆者の胸に啄木短歌一首を浮かびあがらせた。
啄木は盛岡中学四年生の1月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。それも彼一人で詠んだのではなく、かれが主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で彼自身が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだのである。メンバーは十人前後であるらしいから、少なくとも十首以上が詠まれたであろう。鉱毒事件をもっとも早い時期に何人もでたくさんの短歌にしたということになる。

  • 盛岡中学の回覧雑誌に

今は所在不明だが「白羊会詠草」という回覧雑誌があった。1902年(明治35)1月に啄木らが出したものである。歌の題はいろいろである。摘菜、行春、古城、藤花、虹、月といった題である。それら風雅な題の中にあって「鉱毒」という題は異様である。つぎの啄木の歌のみが残っていて知られている。
  夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや
 わたくしは長い間この歌を評価していなかった。

  • 私の評価が180度の転換 

湘南啄木文庫の佐藤勝氏に教わりたいことがあって電話した。そのとき「この歌はつまらないですね」と言ったところ、氏は「民の叫びが届かない、と言いたいのではありませんか」と言われた。一瞬で目から鱗が落ちた。この歌について調べた。その結果わたくしの中でこの歌の評価は180度転換した。
1901年(明治34)12月10日、田中正造明治天皇の馬車に近づき、足尾鉱毒問題を直訴しようとして捕まった。当時啄木が読んでいた新聞は岩手日報一紙だったと思われるが、翌日事件を報道した。14日には直訴状の全文を載せた。この作品は直訴状の内容を歌にしたものだったのである。


◯ 正造直訴の3つの核心
 直訴状の内容は三つの核心からなる。
1 足尾銅山における採鉱製銅による鉱毒渡良瀬川流域とそこの人民を襲い「二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野」となってしまった。
2 流域人民の途方もない苦しみがますますひどくなるのは、政府も地方官庁も被害者を放置しているばかりか抗議するのを弾圧までしているからだ。
3 天皇の力でこれを救済してほしい。
碓田のぼる氏はかつて、啄木歌の「夕川に葦は枯れたり」は直訴状の「黄茅白葦」をイメージした句ではないか、と言われた(『新日本歌人』99年4月号)。卓見である。「枯れて黄ばんだ茅と白っぽくなった葦が見渡すかぎり広がる」渡良瀬川流域を啄木は上の二句でうたおうとしたのだ。「血にまどふ」は「血まよふ」の意味ではなかった。啄木は「血に」の二文字で悲惨さを表現しようとしたのである。

  • 田中・幸徳・啄木を繋ぐ

知られるとおりこの直訴状は田中正造が骨子を示し、幸徳秋水が書いたものであった。田中・幸徳・啄木がここでつながったのである。直訴状の三大内容は、冒頭にあげた「水俣病」記事の三つの見出しに通じている。啄木短歌・足尾鉱毒事件・水俣病もまたつながっていたのである。
2006-05-26 しんぶん赤旗