〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <3>

啄木文学散歩・もくじ


3 啄木住居跡・函館の啄木年譜


石川啄木居住地跡の説明板」

同人たちとの気の置けない交流は、これすべて青柳町でなされたのである。現在の函館公園正面入口前の道路(今は公園通りとも啄木通りとも呼ばれる)を斜めに挟んでの互いの場所である。「苜蓿社」の公園通り向かいに白村が住み、公園正面入口前の道路を電車道路に下る一本目の通りを左に折れてすぐに、白鯨の家があった。(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)

石川啄木居住地跡


「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
「わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」


薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。
岩手県渋民村(現盛岡市)で辛酸の生活を味わった啄木は明治40年5月初め、一家離散を余儀なくされた。
啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家堀合家に預け、母カツは知人宅に託して、妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹は、そのまま小樽の義兄のもとへ向かった。)啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社」(ボクシュクシャ)の同人達であった。
啄木の日記に「四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」(ベニマゴヤシ)は、後に啄木が主筆となり、一切の編集責任を任されることになるが、その苜蓿社は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。
7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。
職場を失った啄木は、9月13日新たな夢を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4箇月余りで終わりを告げたのである。
函館市の説明板)





「このあたりが啄木の居住地」


◯ 函館の啄木年譜

  132日間の函館


1907年 明治40年 啄木 21歳  

  • 5月4日 節子は盛岡の実家、母親は渋民と一家離散し、啄木は妹光子とともに渋民を出る。日記に「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地(十番戸)に留まること一ケ年二ヶ月なりき、と後の史家は書くならむ。」と記した。
  • 5月5日 函館着。苜蓿社同人たちの厚意で、青柳町45番地の松岡蕗堂の下宿先である和賀市蔵(峰雪)方に寄寓する。同行した妹光子は小樽駅長である義兄山本千三郎・トラ夫妻の許に赴く。啄木は雑誌『紅苜蓿』(「べにまごやし」は、啄木の渡道後、「れつどくろばあ」に名称変更)の編集に携わる。
  • 5月11日〜月末 苜蓿社同人の沢田天峰(信太郎)の世話で、函館商業会議所臨時雇として、商業会議所議員選挙有権者台帳作成の仕事を行う。
  • 6月11日 苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、函館区立弥生尋常小学校代用教員(月給12円)となる。同校は明治15年4月9日の創立で職員は15名、児童は1,100名余。同僚の訓導橘智恵子(戸籍名チエ)等を知る。
  • 7月7日 妻節子が長女京子とともに来道。この日、青柳町18番地ラの4号に新居を構える。1週間後にムの8号に移る。翌日、宮崎郁雨宛に最初の無心をするハガキを書き送る。

啄木日記
 函館の夏(九月六日記)

七月七日
節子と京子は玄海丸にのりて来れり、此日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構へ、友人八名の助力によりて兎も角も家らしく取片づけたり、予は復一家の主人となれり、

  • 7月10日 『紅苜蓿』に小説、短歌、文芸時評を発表。
  • 7月24日 宮崎郁雨、並木翡翠、吉野白村、岩崎白鯨、西村彦次郎と大島流人送別の写真を撮る。
  • 7月26日 苜蓿社主宰者であった大島流人、靖和女学校教師の職を辞して故郷日高国下下方村に帰る。
  • 8月2日〜4日 野辺地に滞在していた母カツを迎えに行き、函館に連れ帰る。続いて脚気転地のため函館に来た光子を加え、5人となる。

啄木日記
 函館の夏(九月六日記)

(8月4日)ラノ四号に居る事一週にして同番地なるむノ八号に移りき、これこの室の窓の東に向ひて甚だ明るく且つ家賃三円九十銭にして甚だ安かりしによる、これより我が函館に於ける新家庭は漸やく賑かになれり、京ちやんは日増に生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人
家庭は賑はしくなりたけれどもそのため予は殆んど何事をも成す能はざりき、六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり、只此夏予は生れて初めて水泳を習ひたり、大森浜の海水浴は誠に愉快なりき、

  • 8月18日 小学校在職のまま、宮崎郁雨の紹介で函館日日新聞社遊軍記者となる。「月曜文壇」、「日日歌壇」を起こし、評論「辻講釈」を連載する。
  • 8月25日 函館大火。市内の大半を焼く。啄木一家は焼失を免れたが、弥生尋常小学校、函館日日新聞社とも焼失し、職を失う。啄木の小説「面影」を含む『紅苜蓿』8号の原稿も焼失した。
  • 8月30日 北海道庁から救護活動のために来函中の、苜蓿社同人の大島経男の友人で、『紅苜蓿』寄稿家でもあった向井永太郎(夷希微)に就職の斡旋を依頼する。
  • 9月1日 学校の決定で、生徒の罹災状況把握のため、生徒招集のポスター貼りをする。
  • 9月8日 札幌の北門新報社に校正係の口ありとの連絡が来る。
  • 9月11日 弥生尋常小学校に退職願提出。
  • 9月13日 向井永太郎の斡旋と小国露堂(善平)の厚意により、北門新報社(第三次)校正係となるため札幌に向かう。この日、同人仲間の吉野白村の次男が誕生し、啄木が提案した三つの名前から選ばれて「浩介」と名付けられる。母カツが産手伝いに行く。


 参考文献
石川啄木事典』国際啄木学会編 2001年
石川啄木全集』第6巻 筑摩書房 1986年
石川啄木全集』第8巻 筑摩書房 1983年
『啄木の函館』竹原三哉著 紅書房 2012年







「啄木はここにも」
タイトルは「ぢっと手を見る」
だから啄木鳥。




(つづく)