〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

函館落ちした啄木、市立図書館、函館公園、一族墓 <1>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2001年夏」からの再掲)

◯函館落ちした啄木

「空からの函館」
こんもりと緑の山が函館山。左下に突き出ているのが大鼻岬。海岸線がずっと右下に延びて曲がったところが立待岬で啄木一族の墓がある。

「何か働く職が得られる様なら函館へ行きたいと思ふ」という手紙を受け取ったときの私達苜蓿舎同人の興奮ぶりは我ながらおかしい程であった。何しろその頃の啄木は一部の人から天才とたたえられ中央詩壇でも名を謳われて居たのだから、同じ明星派の流れを汲み而かも文学的郷土の函館に居すくまって遠くから望見して居る私達は、彼をあの美しい尾を曳いて天空を翔ける彗星になぞらえたり、私達の雑誌「紅苜蓿」の巻頭に彼から贈られた長詩を創刊号以来何回も載せて珠玉の様に誇示したりして居た・・・・
孔雀が鶏舎へ舞いこむ位に私達を狂喜させたといっても別に誇張ではない。勿論それが八方を食詰めて「石をもて追はるる如く故郷を出る」彼の函館落ちの瀬踏みの手紙だとは知る筈もなかった。
(宮崎郁雨「石川啄木読本」『函館落ちした啄木』)    


大森浜石川啄木小公園

大森浜

イタリアのナポリを訪れた。岸に波しぶきが寄せて泡立ち、ナポリ湾を囲む高台から海に向かって街が広がっていた。どこかで見たと思ったら函館の大森浜に似ていた。啄木がナポリを見たら何と歌うだろうか

海といふと予の胸には函館の大森浜が浮ぶ。
 ・・・然し予の心に描き出されるのは、遠く霞める津軽の山でもなく、近く蟠まる立待岬でもなく、水天の際に消え入らむとする潮首の岬でもない。唯ムクムクと高まって寄せて来る浪である。寄せて来て惜気もなく、砕けて見せる真白の潮吹である。砕けて退いた後の、濡れたる砂から吹出て、荒々しい北国の空気に漂ふ強い海の香ひである。
石川啄木「汗に濡れつゝ」)


啄木の歌によって短歌を作り始めたという方が、ある新聞にこう書いていた。

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

「東海の小島」の在りかは、仏教的世界観を背景としたインド、中国、韓国からみた日本を指している。日本海のことを中国は東海(トンハイ)韓国は東海(トンヘイ)と呼んでいる。「蟹」は、英語のことを蟹文字と呼んでいた。
したがって、“中国・インド・韓国からみた日本の磯の白砂に、私は、泣きぬれて英語を書いて遊びたわむれていた”となるのではないか。

このように解釈されていた。その方にお手紙を差し上げると、お返事とともに立派な歌集を送ってくださった。小寺巧さんというお名前で、歌集はもう十数冊出されているそうである。






大森浜 石川啄木小公園」

北海道出身の彫刻家本郷新氏の啄木座像。台座にこの歌が浮き彫りされている。


      潮かをる北の浜辺の
      砂山のかの浜薔薇よ
      今年も咲けるや


西条八十が昭和33年来函の際に啄木に捧げる歌を作った。「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもひ出の砂ただ光る 捧啄木」。その詩碑の近くには、ハマナスがようやく根付いて花を咲かせていた。
 

 


大森浜の啄木歌碑」


   砂山の砂に腹這い
   初恋の
   いたみを遠くおもひ出づる日


函館市文学館
啄木小公園の座像と同じ像が、函館市文学館内にもあり、同館の二階スペースは、すべて石川啄木コーナーになっている。一年に二度、直筆等が函館市立図書館より貸し出され、特別室に展示されるとのことである。


「クイズ 石川啄木と函館」のプリントがあった。

 Q、啄木に経済的援助を続けた友人で、啄木の妻節子の妹と結婚した人物。(   )
 Q、弥生尋常小学校の代用教員として、啄木の月給はいくらか?     (   )
 Q、雑誌の名前「紅苜蓿」とは何という植物のことでしょうか?     (   )


案内をしてくださった文学館の方が、「芥川賞受賞作家のの辻仁成さんは、北海道へ来られるたびに文学館によってくださる」とお話しされた。辻さんは、中学3年から高校卒業までを函館で過ごしたそうである。


  [ A(宮崎郁雨) A(12円) A(れっどくろばあ・うまごやし)]


函館公園内 歌碑


函館公園内啄木歌碑」
洋風の噴水の吹き出す静かな公園内、石段を登ったところ。「全国の啄木歌碑の中でも一番美しいといわれる」と看板に記されてある。拓本をとった分だけ石の面が青くきれいになっている。

    

    函館の青柳町こそかなしけれ
    友の恋歌
    矢ぐるまの花



「説明板」

昭和28年4月 宮崎郁雨の手によって建てられた。

裏面

「・・・短い期間であったが
此の間の彼の生活は多数の盟友の温情に浸り
且久しく離散していた家族を取り纏める事を得て
明るく楽しいものであった・・・」
と郁雨の言葉がある 



◯啄木の骨を一時安置した、函館市立図書館

「市立図書館の玄関」
緑に囲まれ歴史を感じさせる場所と建物。ギリシャ神殿のような下に向かって太いエンタシスの柱。閲覧希望者には一部を除いて複写した物を館内のみ貸し出している。



「岡田健蔵氏の胸像」

図書館の入り口にある。ハイカラで野口英世のようなヘアスタイル。


吉田孤羊氏は、取材のため函館を訪れた時のことをこのように記している。

昭和2年11月資料蒐集のため函館市立図書館長の岡田健蔵と会う)・・・岡田さんはひどくごきげんで、ストーブのかたわらで、冷えきったビールを傾けながら、「浅草の等光寺から啄木の骨を運んできたが、石川家の墓地があるわけでなし、置き場にこまって・・・」と、頭の上の雑然と古書類を積み上げている煤けた棚を指さしながら「この頭の上に半年ばかり骨箱をのせて置きましてね」と、打ち明け・・・
(吉田孤羊「啄木発見」)


郷土史研究家の高島小太郎氏が、昭和53年に〈啄木の遺骨がなぜ節子の死後、函館に運ばれたか〉についてこのように書いている。

・・・節子夫人は二女房江を出産した後、八月に京子と房江を連れて、盛岡に叔父加藤氏をたずねたが、故郷に墓をつくれないまま、函館に転住している実家をたよって海峡をわたり、青柳町の住居に落ち着いた。夫人の病気はまた悪化し、豊川病院にかかって大正二年を迎えた。死期の遠くないことをさとった彼女は、願わくは啄木の遺骨を函館に迎えとり、やがてはその墓に我が身も共に葬られたい、と念じていたようである。
この時、函館図書館の主事をしていたのは、後の館長岡田健蔵であった。彼は啄木の天才を早くから注目して、その資料を蒐集していたので、やがて病床の節子夫人とも話をするようになり、その委嘱を受けて啄木の遺骨を迎えに行く事になった。大正二年三月上京した彼は、等光寺に出向いて事情を説明し、啄木と母の遺骨を受け取った。彼は啄木の長男真一の遺骨をも喜の床の菩提寺である了源寺から受け取って函館に帰り、墓地が定まるまで一時図書館に預かっておいた。・・・
岡田健蔵は図書館の中に啄木文庫をつくって、啄木日記その他の重要資料を蒐集したが、郁雨はこれを助けて文庫の集大成につとめ、岡田の死後、一時館長代理としてその保存と研究に力をそそいだ。・・・
 (高島小太郎 “啄木追悼”)

◯青柳町の歌碑と啄木住居跡
ここは啄木が函館に行くにあたり、頼っていった「苜蓿舎」同人、吉野白村の住居跡。彼の紹介で、啄木は青柳町に住居を見つけた。現在は窯所「臥牛舎」。歌碑を見ていると窯所の方が出てきて「文字は土地の書家に、英訳は函館大学の先生にお願いした」ことなどを説明してくださった。


「苜蓿舎」同人住居跡の歌碑
   こころざし得ぬ人人の
   あつまりて酒のむ場所が
   我が家なりしかな
   Those who are frustrated
   In their endeavors
   Get together and drink Sake
   At my house.


・・・函館に縁があって来合わせ、檄を飛ばして文学青年を組織し、苜蓿社を結成して「紅苜蓿」を発行するのである。
函館の土地に生まれ育った青年達による文学結社に啄木が参加したのではない。植民地的な風土の函館に、よそ者たちが偶然に集まって明治三十九年十月に文学結社をつくり、翌年五月渋民の啄木を呼び、そしてそれから間もなくの明治四十年八月の函館大火が原因となって、その結社は解散の余儀なきに至るのである。彼らは己れの青春を文学に燃焼させ、「紅苜蓿」という、当時北海道では唯一の文学雑誌を七号まで発刊し、不滅の結晶を残して四散していったのである。・・
(福地順一「啄木をめぐる青春像」石川啄木全集 月報5)

「啄木住居跡の案内板」

啄木住居跡近くと思われるところに車を止め、探すが見つからない。塀の中にいる人に聞くと「一本向こうの道です」とのこと。なるほどその道にはきれいな青地に白抜きの案内板が立っていた。しかし実際はその小路を入り、石段を5段ほど上り曲がって更に歩き突き当たったところだった。
ここは「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」と歌った何とも響きのきれいな青柳町なのだ。




「啄木住居跡付近」
そして啄木がここに住んでから5年経たない内に骨となり、この地から400メートルとは離れていない市立函館図書館の書庫に安置されたのだ。さらにその翌年には 1 キロメートルほど先の立待岬に妻節子、長男真一とともに葬られることになろうとは。
 

◯啄木を写したカメラ(?)と、一族の墓


「啄木を撮影したかもしれない「旧小林写真館」のカメラ」

旧函館区公会堂は、明治43年(1910年)に完成した木造建物。(明治40年8月25日の大火で焼失した町会所を寄付によって再建) そのバルコニーからは、函館湾の青い海が美しい。啄木は、明治41年には、上京してしまうので、この建物の華やかな仕上がりは見なかった。


「旧小林写真館」の写場

 旧小林写真館は現存する写真館では北海道最古のもので、明治40年(1907年)に建てられた。この公会堂から西へ500メートル離れたところにある。初代の小林健蔵氏は神戸で写真技術と英語を学び、明治33年(1900年)函館に派遣された。明治35年写真館を建て、独立して開業した。写真館は、明治40年8月、大火で焼失したが、12月に再建して、石川啄木、外国人などの写真を撮影した。この写場の機材や調度品は当時からの使用のもので、二代目信男氏に引き継がれた貴重なものである。(要約)

その啄木の写真とは、どんな写真だったのだろうか、今も残っているのだろうか・・・などと古いカメラ機材を見ながら考えていた。






石川啄木一族の墓説明板と大森浜津軽海峡


景観一等地の立待岬にこんなきれいな墓を建てた。しかし、将棋駒の形をした墓石よりも、津軽海峡の波の美しさや函館の街の美しさに目がいってしまう。それでいいのだろう。生涯の応援者をこの地で得て、貧しくはあるが家族と共に生き生きと暮らした啄木。金田一京介や宮崎郁雨の援助は並はずれていた。彼のどこにそんな魅力があるのだろう。やはり放ってはおけない、支援せずにはいられないと思わせることが、啄木の魅力を証明しているに違いない。

90年以上前に住んだ啄木一家にとっても、きっと函館は心温まる街だったのだろう。

(2001-夏)