〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の “一瞬の「いのち」の記録としての歌” 草壁熖太講演


[マンリョウ]


◎狭山・狭山水曜歌会主催講演会 2016年11月23日
草壁熖太主宰講演『石川啄木とその時代』 河田日出子


今回は石川啄木の話。

  • 詩歌は気持ちを表わすものだから人の心に響く。文学は、体にとっての栄養と同じで、心の滋養として必要だから、気持ちの表れた詩歌を、皆知りたいと思う。その心の滋養となる詩歌を作った代表的な人が啄木。
  • 日本人は詩と歌が好きで、10人に1人は詩歌を書いている。こんな国は外国にはない。日本人皆が気持ちを表わすことが大切と知っている。その詩歌を愛する国、日本の中で、啄木は一番良く読まれた。
  • 啄木はお寺の住職の子供だったので、百姓ではないという意識があったと思う。啄木は渋民村から盛岡中学に行ったが、130人中、(成績は)10番位の子だった。父親が、欲しいものは買ってやるといい、当時の新しい雑誌は全部読んでいた。啄木は文学の病気にかかり、17歳位の時、授業に出なくなり、落第点をとった。
  • 東京に出て、4年先輩の金田一京助のところに転がり込む。この人は啄木を認め、下宿代まで払っている。啄木は文学で生活が出来ると錯覚し、たまたまある幸運で19歳で詩集『あこがれ』を出版したが、反響なく失敗した。その頃、節子と結婚したが、父親が寺から追い出され、啄木が父母・妻子の生活を支えなければならなくなった。
  • 代用教員、北海道の新聞社勤めなどを経て東京へ。小説では売れず、もう、俺は駄目だと思ったとき歌で自分の気持ちが書けるようになる。真実を書いて人に伝わるようになったのだ。今日、啄木の歌だけは一冊読み通すことが出来る。斎藤茂吉の子の北杜夫は、啄木の歌は中学生でも書けると言っているが、と聞いてきたが「書けませんよ」と私は答えた。書けるものならみんな書いて読ませようとしたはず。誰も三行の歌で名を残した人もいない。


   たはむれに母を背負ひて
   そのあまり
   軽きに泣きて 三歩あゆまず

  • 『一握の砂』には、大別して三つのテーマがあったと思う。一、「我を愛する歌」。二、流離の人生。三、一瞬の「いのち」の記録としての歌。
  • このうち、最も斬新なのが一瞬のいのちをたいせつにしたいという考えであると、私は思う。「さうさ…おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。…歌といふ詩形を持つてるといふことは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が可愛いから歌を作る」(「一利己主義者と友人との対話」)

   とかくして家を出づれば
   日光のあたたかさあり
   息ふかく吸ふ

  • しかし、このときいのちはもう一年とちょっとしか残っていなかった。啄木は歌を残した。啄木の三行歌も文学形式としては残っていない。現在の五行歌は、「啄木が考えていたことを私が実現しているな」と思っている。啄木の予言は五行歌を見ると、ぜんぶ当たったということになる。


〇月刊『五行歌』2017年1月号
 五行歌の会 発行 1000円
  草壁熖太講演録「石川啄木とその時代」