8 錦木塚展示室の石川啄木
展示室は鍵の閉まった部屋になっているので、係の人に解錠していただき見学する。
無料。
プロローグ
ここ錦木の里は、古くからみちのくの歌枕として世に知られてきた。菅江真澄など多くの文人たちがその足跡を印した。石川啄木は長詩「鹿角の国を憶ふ歌」「錦木塚」に、多感の涙をそそいだ。
(展示説明)
錦木塚展示室
錦木や錦木塚にまつわる先人の資料が展示されている。
ゴッホが隠した遊女・錦木
ゴッホが模写した広重の浮世絵に、「大黒屋錦木江戸町」などの漢字が入っていた。
- 浮世絵にあこがれたゴッホが「梅の木」に書き込んだ漢字は、江戸の遊女絵「錦木」の画面から模写した可能性が強いことを、テレビ朝日の取材班がつきとめた。
- 「梅の木」の絵の部分は、歌川広重の「名所江戸百景」の模写だが、「大黒屋錦木江戸一丁目」の文字は歌川国芳門下が描いた絵にある文字と酷似している。そのことから、ゴッホがこの絵を参考にしたと推論。
(1992-01-14 朝日新聞)
「鹿角の国を憶ふ歌」について
「鹿角の国を憶ふ歌」は、三九年「明星」第一号に発表された。五音と七音の連続による五四行の長詩で、錦木塚にだんぶり長者の二伝説を重ね、十和田湖と大日堂の描写を織り交ぜて一遍としたものである。さきに未完に終わった「錦木塚」に代えて、さらに詩想を鹿角全域に広げたという趣きである。啄木がこのように一つの土地に執着して、二つもの長編詩を詠んだということは他に例をみていない。
(「鹿角市史」第三巻上)
「明星」に掲載「鹿角の国を憶ふ歌」石川啄木
「明星」明治39年1月号 午歳第一号 一月一日
金田一京助説の文と絵
「錦木」の解釈
では、一尺ばかりの木とはどんな木であったか。アイヌの生活の中に、イナウすなわち削花がある。この削花は神を招き降ろす時、神へ呼びかけて祈る時に、まずこれを作って立てる。
この招くこと、呼びかけることをアイヌ語でニシュクという。
一尺ばかりの棒、つまりニシュクする木はこちらに振り向かせるためのものであるから、ひょっとするとニシキ木はニシク木ではあるまいかと考えられる。
(王朝歌人のエクゾティシズム」から要約)
“鹿角むらさき”
「新編 石川啄木」に登場
○流離から再会へ
(釧路港を出て津軽海峡を渡り、横浜に着き、4月29日)
- ひょっこりと本郷菊坂町八十二の赤心館に、去年大学を卒業して、丁度この四月から、海城中学へ務めていた私を訪ずれたのである。
(再会を喜び、国訛りになってしゃべり続けた。啄木が「当分、この隅へでも置いて下さい」というから「何も気遣いなく、何時まででもいらっしゃい」といった)
- 寝る段になって、二人で押し入れから引っ張り出した私の夜具布団が、南部むらさき、即ち、国でいう鹿角むらさきで、国では、この夜具布団に寝ると、病気にかからないなど云う旧い頃からの伝説があり、母が心尽くしの夜具だったのを、石川君は鹿角郡が曽遊の地であり、このむらさきも好きだったので、好い心持ちになって、一としきり鹿角を偲びなどした。
- 元来紫という色は光線に対しては著しく敏感で、直射日光に長時間晒すと非常に褪色し易い。
- 鹿角の古代染法は特に手数をかけるため、同じ紫でも他のものに比べて遥かに色が堅牢とされる。また箱にしまっておくなど光線を遮断する措置を講ずることにより、長く置けば置くほど年々歳々その色が安定していくと云う特性がある。
- それ故着物の場合でも外に晒すことのない襦袢などに用いられ、また夜具布団に多用されたと云う。
(「鹿角市史」)
(つづく)