〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <6>

啄木文学散歩・もくじ


6 鹿角市立花輪小学校と田中正造石川啄木


秋田県鹿角市立花輪小学校

足尾銅山鉱毒事件を告発した田中正造(1841-1913)が、かつて勤めていた花輪支庁舎跡に建つ学校。
右上に写っている松の枝は田中正造のいた時代のもの。

  • 田中正造は1870(明治3)年、江刺県花輪支庁(現秋田県鹿角市)の下級官吏となった。
  • 正造の赴任当時、一帯では、深刻な飢饉の発生に農民が苦しんでいた。太平洋からの冷風“やませ”の影響だった。「正造は着任早々、農村をくまなく歩いて困窮状態を調べ、救援米を本部から手配したとの記録が残って」いる。
  • しかし、正造はそれからまもなく、上司殺害の嫌疑をかけられ、逮捕された。嫌疑が晴れるまでの2年9か月間、投獄される。

(2013-01-05 読売新聞)





花輪小学校の門柱と「雁木造」


花輪小学校は2009年に新校舎竣工式が行われた。
木の温もりが映える壁、外部通路には庇を長く張り出した「雁木造」が取り入れられた。(「雁木造」は、1枚目の写真のほうがよく写っている)







二の丸 花輪通代官所


花輪小の門柱を入ったすぐ右手にこの標柱がある。


花輪小学校敷地は鎌倉時代に武士団が入部し館を設けた場所の跡地である。
館は全部で42あり、鹿角四十二館と呼ばれた。「花輪館(はなわだて)」はその一つで、花輪氏の居館だった。
この二の丸には、盛岡藩代官所が置かれていた。






「花輪館」についての掲示


「二の丸」標柱のすぐ隣に建つ掲示板には、城館を中心に家臣を配置し、花輪の町並みが作られたことなどが記してある。






田中正造について書かれている部分


「明治3年(1870)ここに江刺県花輪分局が置かれ、後に足尾銅山鉱害反対運動で有名になる田中正造が勤務していた」

正造は上司殺害の嫌疑が晴れ、1874年無罪釈放となり故郷の栃木県佐野の小中村に帰った。
衆議院議員として1891(明治24)年、帝国議会で初めて鉱毒を取り上げ「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出した。
1901(明治34)年、衆議院議員の職を辞して、明治天皇足尾鉱毒事件の解決を求める直訴を試みた。天皇の馬車に向かって直訴状を掲げたが、足がもつれひざをついた。道路沿いで警護していた警官に取り押さえられ、天皇の乗った馬車は何事もなかったかのように走り去った。(下野新聞 田中正造物語-22)




「正造と啄木」佐野厄よけ大師 = 春日岡山惣宗寺(栃木県佐野市

正造の墓石「嗚呼慈侠 田中翁之墓」
石川啄木の歌碑



直訴は、正造が警官に取り押さえられたことで終わってしまった。しかし、鉱毒被害への支援は、直訴以降さらに活発となった。その一つが、啄木たちの活動であった。

「啄木と足尾鉱毒水俣病
   田中正造の直訴状を歌に詠む    近藤典彦


  夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや

  • 啄木は盛岡中学四年生の1月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。それも彼一人で詠んだのではなく、かれが主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で彼自身が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだのである。メンバーは十人前後であるらしいから、少なくとも十首以上が詠まれたであろう。鉱毒事件をもっとも早い時期に何人もでたくさんの短歌にしたということになる。
  • 1901年(明治34)12月10日、田中正造明治天皇の馬車に近づき、足尾鉱毒問題を直訴しようとして捕まった。当時啄木が読んでいた新聞は岩手日報一紙だったと思われるが、翌日事件を報道した。14日には直訴状の全文を載せた。この作品は直訴状の内容を歌にしたものだったのである。

 (2006-05-26 しんぶん赤旗


石川啄木と田中正造-1 啄木文学散歩
石川啄木と田中正造-2 啄木文学散歩






石川啄木歌碑」


正造は1913年(大正2)病に倒れ、9月4日死去した。死因は胃ガン。享年71歳10ヵ月。
同年10月12日に正造の葬儀が佐野厄除け大師( 春日岡山惣宗寺)で行われた。渡良瀬川両岸被害地はもちろん全国各地より人々が参集した。町中心部を長い葬列が進み、沿道は別れを惜しむ数万の群衆で埋まったという。




「鹿角」には、田中正造石川啄木とを結ぶ不思議な縁があった。


(つづく)