〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <4>

啄木文学散歩・もくじ


4 「『康楽館』の歌舞伎」を啄木の姉夫妻は………
  

「明治百年通り」

「小坂鉱山事務所」「康楽館」など重要文化財の建築物が立ち並ぶ遊歩道。
アカシアと桜の並木に、はためく幟が美しい。






明治の芝居小屋「康楽館」

康楽館は1910(明治43)年、小坂鉱山の娯楽施設として開館した。木造芝居小屋で和洋折衷の造りが特徴。東北唯一の回り舞台を持った芝居劇場で、2階建て、花道があり定員800名という堂々たるものだった。下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並び洋館風の外観を持つ。


今でも、ほとんど毎日、しかも1日2公演がある。


移築や復元をしないで、現在も利用されている木造芝居小屋として日本最古だそうだ。






康楽館・鉱山慰安会・電気まつりのパネル(郷土館)







満員の康楽館(パンフ「近代化産業遺産」小坂まちづくり株式会社)

「家族慰安会」と称して、全従業員とその家族が歌舞伎を楽しんだ。


康楽館誕生は1910(明治43)年で啄木の姉サダが亡くなったのは1906(明治39)年だったため、少なくともサダは康楽館でお芝居を楽しむことはできなかった。






「康楽館」(大館能代空港ジオラマ


七夕祭は各地それぞれに先祖をまつったり、芸事上達や願掛けなどの由来や意味をもつ。
「小坂七夕祭」は明治末ごろ、全国各地から集まった鉱夫らが故郷に思いを馳せて始まったらしい。「明治百年通り」や「康楽館」を中心に行われるこの祭りには、鉱山の繁栄や鉱山犠牲者の供養などへの願いが込められているという。


康楽館100年のあゆみ

  • 康楽館は、音楽会や講演会、労働運動の集会などにも利用された。しかし、主に劇場として利用され、小坂鉱山主催の“慰安会”も行われた。毎年6月頃に約1週間無料で全従業員とその家族全員、地域住民までも、歌舞伎を楽しむことができた。
  • 戦争中は、康楽館が強制連行された中国人労働者の宿舎として使用された。昭和20年(1945)3月の記録には「小坂鉱山華人200名…」「一体に疲労している。寮は康楽館で、食糧問題には困っており…」、劣悪な栄養状況と過酷な労働で、中国人労働者の最終的な死者は62名に上ったといわれている。
  • 康楽館は戦後いち早く劇場としてよみがえり、特に映画館として華やかな時代を迎えた。しかし、テレビの普及とともに映画離れが進み、昭和45年頃には一切の興行も停止された。劇場としての復興は昭和61年(1986)の修復オープンを待つことになった。

(広報こさか No.1011 2010年8月号)

 

(つづく)