〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報 (② 少年・青春時代(上))


[ヒメシャラ]


「啄木 賢治の肖像」

 ② 少年・青春時代(上)
  級友と共に文学志す

  • 石川啄木は1895(明治28)年、盛岡高等小学校(現・下橋中)に入学。校長は生涯の師となる新渡戸仙岳。生涯の親友となる金田一京助(2学年上)は「見たところでは、六つ七つの子供と見違えそうな」幼さの残る啄木をからかい、追い回されたと著書に書いている。
  • 1898(明治31)年、啄木は128人中10番という優秀な成績で盛岡尋常中学校(現・盛岡一高)へと合格。当時、野村胡堂(作家)、金田一京助言語学者)、及川古志郎(海軍大臣)、米内光政(内閣総理大臣)らがいた。後に、政治、軍、学術の各界で活躍する面々がそろっていた。
  • 啄木と後の妻節子との出会いの時期は1899年(明治32)年、啄木13歳のころだったとされている。
  • 1901(明治34)年、啄木3年次に、地元出身の先生たちと他県から来た優秀な先生たちとのあつれきに生徒らが不満を持ち、校内刷新運動が起こった。当時の知事の裁定で収束。校長の休職、教員23人中19人までが休職、転任、依願退職となった。
  • 啄木はまた、及川、京助、野村らの指導を受けて文学を志し、雑誌「明星」を愛読。友人たちと回覧雑誌を作り、短歌研究の会を組織し、詠草は岩手日報に連載された。「翠江」の筆名で、啄木の短歌が初めて活字となったのである。

(② 少年・青春時代(上) おわり)


(2016-01-13 岩手日報
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