ハマナスの赤い実
- 啄木の日記や手紙を読むとき、そして、啄木の生涯を考えるとき、野辺地町が啄木にとっていかに大きな存在であったかがうかがわれる。
『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著
資料『啄木と野辺地』
歌碑建立にあたって/野辺地町啄木歌碑建設の会刊(1962年(昭和37))
八甲田連峰 (青森県観光物産館アスパム展望台より)
中央一番高い山が「八甲田大岳1584m」、すぐ左が「赤倉岳1548m」。
・啄木と「八甲田山雪中行軍遭難事件」
1902年(明治35)1月29日、岩手県立盛岡中学校4年、15歳の啄木は、ユニオン会有志と「岩手日報」号外(青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件)を売って義援金を募り、足尾鉱毒地の被災者に送った。
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啄木は26歳で逝ってしまった。
若すぎる、短すぎる、せめてもう少し。
勝手なことをいってみる。
しかし、十分生きた。
人生は年月の長さだけでは測れない。
とも感じる。
啄木は懸命に生きた。
文字通り命を懸けて生きた。
赤裸々に生きた。
かなしみといはばいふべき
物の味
我の嘗めしはあまりに早かり
『一握の砂』
先んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老ゆ
『一握の砂』
津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子
『復元 啄木新歌集』近藤典彦 編 桜出版
「一握の砂以後」(四十三年十一月末より)
「仕事の後」
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(「おわり」を訂正し <その12> へ つづく)
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