〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その9>

啄木文学散歩・もくじ

青森県上北郡野辺地(のへじ)町 愛宕公園-2

歌碑を示す標柱


右後ろにあるのが啄木歌碑。








『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著

青森県野辺地町愛宕公園の歌碑
啄木の母カツの兄は葛原対月という曹洞宗の僧で、父一禎の師僧でもあった。対月が平館村の大泉院の住職として赴任した時に一禎はその薫陶を受け、のち対月が盛岡の龍谷寺に移ると一禎もそのあとを慕って龍谷寺の役僧となった。二十五歳の若さで一禎が日戸村常光寺の住職になれたのは対月の尽力によるといわれる。
対月は二十五年間龍谷寺役僧を勤めたあと、明治二十八年六月に青森県上北郡野辺地の常光寺住職に転じたが、生活苦に耐えかねた一禎はたびたびこの寺に師僧を頼って身を寄せた。このため啄木もまた何度か同寺に立ち寄っている。
このゆかりから昭和三十七年五月四日、野辺地町啄木歌碑建設の会が中心となり、常光寺にほど近い愛宕公園の中腹に啄木五十回忌記念として歌碑が建立された。






    潮かをる北の浜辺の
    砂山のかの浜薔薇よ
    今年も咲けるや

           啄木


碑石は啄木の故郷の姫神山から産出した黒みかげ石、文字は啄木自筆からの集字拡大である。







<碑陰>

石川啄木が明治三十七年九月廿九日初めて野辺地町
たずね「・・・野辺地が浜に下車して 咲き残る浜茄
子の花を摘み 赤きその実を漁童と味わいなどして・
・・」と友人へ報じている
伯父葛原對月が常光寺住職として十五年間在住し 父
石川一禎も この師僧を慕って数年間身を寄せ 啄木
もまた数回訪れて数々の文献を残された 我が町は県
下唯一の啄木ゆかりの地といえよう 天才詩人の琴線
にふれたつぶらな浜薔薇の実は今も十符が浦の潮風に
さゆれている
ここに啄木没後満五十年を記念し 万人に愛好されて
いる啄木文学を顕彰し ゆかりの歌を刻みその面影を
しのぶよすがとした
 昭和三十七年五月四日 野辺地町啄木歌碑建設の会
                  盛岡
                   高橋仁助刻


(つづく)
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