青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-3
常光寺本堂
左側の樹は季節になると華やかに咲く枝垂れ桜。
一禎と野辺地とその最期
1879年(明治12)、一禎は行脚僧として野辺地常光寺に逗留。
1906年(明治39)、一家の苦境をしり目に家出し、野辺地常光寺の葛原対月のもとに身を寄せる。
1907年(明治40)、宗費滞納弁済の見通しがつかず、野辺地常光寺の葛原対月を頼り家出。
一禎は家出のたびに家族のもとへは戻ったのだが、1910年(明治43)に師葛原対月が亡くなり、1912年(明治45)3月、妻カツ、同4月、息子啄木が亡くなった。
残された息子の嫁節子と孫京子を置いて、一禎はまた家出をする。今度は、二女トラの夫で鉄道官吏山本千三郎のところだ。その転勤に従って各地を廻り、1927年(昭和2)2月20日、奇しくも啄木誕生日と同じ日に高知でその生涯を閉じた。
JR高知駅前「啄木の父 石川一禎終焉の地の歌碑」
一禎が晩年を過ごした高知市の高知駅前に、2009年9月に啄木父子の歌碑が建てられた。
- 吉田孤羊は山本千三郎を訪ね、一禎の思い出話を聞いた。一禎の臨終は「まるで文字通り眠ったままだった」と『啄木を繞る人々』に書いている。
- 『わが旅路』(岩崎巌松著)の中には、「一禎は、娘夫婦と同居した17年間は幸せそのものだったという。お通夜や葬儀に参列した当時の職員が健在で、その状況を伺ったことがある」とあった。
「眠るがごとき旅立ち」高知県高知市>啄木文学散歩>啄木の息
本堂の額
野辺地町カルタにいる啄木
野辺地町立図書館のページで、啄木の名が入るカルタを見つけた。
- 野辺地いろはカルタ
「啄木も旅装を解いた常光寺」
- のへじふるさとカルタ
(つづく)
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