〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その2>

啄木文学散歩・もくじ

合浦公園(がっぽ こうえん)(つづき)


中央が石川啄木歌碑

『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著

妻子を盛岡の実家に、老母を渋民の知人宅に託して啄木が妹光子とともに新しい運命を開拓すべく津軽の海を越えたのは明治四十年五月四日であった。その時のことを回想して、のちに啄木はローマ字日記に「妹は小樽にいた姉のもとに厄介になることになり、予もまた北海道へ行って何かやるつもりで、一緒に函館まで連れていってやった。津軽の海は荒れた。その時予は船に酔って青くなってる妹に清心丹などを飲まして、介抱してやった」と記している。(つづく)





(つづき)それからちょうど五十年後の昭和三十一年五月四日、津軽の海に臨む青森市の合浦公園にこの歌碑が建てられた。歌碑建立は戦前、青森の川崎むつを氏らによって発案された。しかし戦争で一時中断し、戦後、当時の青森市長横山実氏らの援助によって、進駐軍の支配から市に返還されることになった合浦公園に、その返還をも記念する意味で建てられた。碑文の揮毫は歌の中の“妹”三浦光子さんである。







              啄木
    船に酔ひてやさしくなれる
    いもうとの眼見ゆ
    津軽の海を思へば
              光書




碑文の揮毫は啄木の妹・三浦光子さん。








<碑陰>
石川啄木が石をもて追わる
る如く故里を出て妹光子と
共に津軽海峡を渡ったのは
明治四十年五月四日であった

この歌碑は青森県啄木会
青森市その他の協力を得て
青森県啄木歌碑建設委
員会をつくり昭和三十一年五
月四日に建てたものである

碑文の文字、碑陰の文字ともにはっきりと読めた。啄木以外のたくさんの碑の手入れも行き届いていた。
合浦公園を支える暖かい人々の手の温もりが伝わってくる。



(つづく)
────────────────────────────────────